
ベストセラーとなった養老孟司氏の『バカの壁』(新潮新書)を読んでみました。最初は大きな期待を持ってページを開きましたが、読み進めるうちに次第に拒否反応を覚えてしまった、というのが正直な感想です。
冒頭ではある程度納得できる部分もありました。しかし全体としては、日常生活上の感想の域を出ないように感じられました。他の研究者による書籍と比べてみると、情報の厚みや論理構成、説得力の点で見劣りがしてしまうのです。
では「バカの壁」とは何を指すのでしょうか。本書では次のように説明されています。
「題名の『バカの壁』は、私が最初に書いた本である『形を読む』(培風館)からとったものです。・・・結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。そういうつもりで述べたことです。」
さらに、こうも述べられています。
「あるていど歳をとれば、人にはわからないことがあると思うのは、当然のことです。しかし若いうちは可能性がありますから、自分にわからないかどうか、それがわからない。だからいろいろ悩むわけです。そのときに『バカの壁』はだれにでもあるのだということを思い出してもらえれば、ひょっとすると気が楽になって、逆にわかるようになるかもしれません。」
確かにタイトルのインパクトは強いのですが、実際には「いくら説明しても相手がわかってくれない」といった日常の感情を「バカの壁」と名づけただけではないか、という印象を持ちました。
本書の中では「脳内の1次方程式」というモデルも紹介されています。
「入力された情報を脳の中で回して動かしているわけです。この入力を x 、出力を y とします。すると、 y=ax という1次方程式のモデルが考えられます。・・・通常は何かの入力 x があれば、当然、人間は何らかの反応をする。つまり y が存在するのだから、 a もゼロではない、ということになります。」
「ところが、非常に特殊なケースとして a=ゼロということがあります。この場合は、入力は何を入れても出力はない。出力がないということは、行動に影響しないということです。」
しかしこれは「何を言っても反応しない人がいる」という当たり前の事実を数式に置き換えて言い直しているにすぎず、学問的に新しい知見が生まれているとは言いにくいでしょう。しかも脳内活動を単純な1次方程式で説明するのは、あまりに単純化しすぎています。
例えば東京大学の池谷裕二氏は『単純な脳、複雑な「私」』で次のように述べています。
「僕らの行動は、フィードバックだけではなくて、逆モデルも多用している。・・・外部世界がすでに脳の中に経験として保存されていて、経験という『世界のコピー』を元に目標から計画を逆算している。それを世間では『予測』と言う。そういう予測を知らず知らずのうちに、経験に基づいて行っている。」
このように、脳は単に入力を処理するのではなく「予測」しながら世界を先取りしていることが、科学的データをもとに説明されています。入力→出力の直線的モデルとは根本的に異なる視点です。
脳の活動をシミュレーションした映像を見ても、その動きがいかに複雑で、単純なモデルでは捉えきれないことがわかるでしょう。
一方で、本書には挑発的ともいえる発言が随所に見られます。
「NHK の報道は、『公平・客観・中立』がモットーである、と堂々と唱えています。『ありえない。どうしてそんなことが言えるんだ。お前は神様か』と言いたくもなってしまう。」
「現代社会において、本当に存分に『個性』を発揮している人が出てきたら、そんな人は精神病院に入れられてしまうこと必至。」
「いっそのこと外務省は宮内庁と一緒にしてしまって、『儀典庁』として儀式だけやっていればいい」
「近年、学校での『ゆとり教育』とか『自然教育』といったものが盛んに唱えられるようになりました。・・・ともあれこういう教育には何の意味もない。」
こうした発言は痛烈であり、読者の興味を引きますが、同時に養老氏自身が「自分の壁」から出ようとしていないのではないか、という疑問を抱かせます。むしろ「バカの壁」の中にいるのは著者自身なのではないか━━そう感じざるを得ませんでした。
とはいえ『バカの壁』が多くの読者を惹きつけ、ベストセラーとなったのは事実です。その理由は、専門的な理論ではなく、誰もが日常で感じる「わかってもらえない」「伝わらない」といった感覚に、わかりやすい名前を与えた点にあるのかもしれません。学問的な裏付けには物足りなさを覚えましたが、それでも「壁」を意識させるきっかけを与えてくれるという意味で、一定の役割を果たしたのだと思います。