今回は、東京大学薬学部教授・池谷裕二氏による著書『単純な脳、複雑な「私」』(講談社ブルーバックス)を読み、特に印象に残ったテーマについて紹介します。本書では、脳科学の知見に基づき、「私」とは何か、「心」はどこから生まれるのかといった根源的な問いに挑んでいます。以下、心に残ったトピックをいくつか取り上げ、感想を交えつつご紹介します。

記憶がつくる「私」

本書でまず印象に残ったのは、「記憶」が「自分らしさ」の根拠だとする視点です。

「寝てから朝起きるまでのあいだは、ほとんど意識がないよね。でも今朝、起きたときに、昨日の自分と今日の自分が同じだということに疑問を持った?・・・これを保証してくれる唯一の拠り所は、実は『記憶』なんだね。」

私たちは、記憶によって時間の連続性を感じ、「自分は自分だ」と思えている。言われてみれば当たり前のようですが、改めて考えると、これは非常に脆弱な “前提” にすぎないということに気づかされます。

「見えている世界」は脳がつくる

「目のレンズが生み出す世界像は天地が逆」というテーマも衝撃的でした。

「たとえば、この図のように地面からまっすくに天に向かって木が生えていたとする(図21)。・・・目のレンズは1枚だから、網膜には倒立した像が映るわけだ。」

「僕らは常に上下がひっくり返った世界を見ている。・・・僕らが生まれながにして持っている『逆さメガネ』(目のレンズ)を矯正して、あるがままの正しい向きに修正してあげたということになるわけだ。目のレンズは1枚だから、網膜には倒立した像が映るわけだ。・・・僕らに今見えている世界の『正しさ』って、一体なんだろう?・・・そもそも『正しい』『間違い』なんていう絶対的な基準はないんだ。」

私たちは、世界を「見ている」つもりで、実は「脳が再構成した像」を「見せられている」にすぎません。そしてその「正しさ」は、過去の記憶や慣れによって構成されたものなのです。

幽体離脱は「魂」ではなく「脳の現象」

池谷氏は、「幽体離脱」を誘発する脳の部位についても紹介しています。

「頭頂葉と後頭葉の境界にある角回(かくかい)という部位。この部位を刺激されるとゾワゾワゾワ~と感じる。・・・角回を刺激すると、自分のすぐ後ろに、背後霊にようにだれかがベターッとくっついているような感じがする・・・実は背後にいる人間は、ほかならぬ自分自身だ。」

「刺激すると幽体離脱を生じさせる脳部位が実際にあるんだ。つまり、脳は幽体離脱を生み出すための回路を用意している。・・・今や装置を使って脳を刺激すれば、いつでも幽体離脱を人工的に起こせるようになった。」

非科学的だと思われがちな現象も、脳科学の文脈で理解できる。ここに科学の面白さが凝縮されているように思いました。

他者との違いより、「だいたい同じ」であること

つい他人と比べてしまう私たちですが、本書はその前提を根本から問い直します。

「ヒトは相違点よりも類似点のほうが多い。・・・脳回路を開いてみると、分子レベルや細胞レベルの細かい点では個人個人に差異があるけど、大ざっぱには脳はほぼ同じ構造をしている。僕はこれがキーだと思うんだ。・・・構造が保たれている限りは、だいたい共通の『認識』が生まれるうることになる。」

個々の違いばかりが強調されがちな現代において、「大ざっぱには同じ構造をしている」という事実は、他者への共感や寛容の出発点になりうると感じました。

「可塑性」があるから人は成長できる

「可塑性(plasticity)」とは、脳の変化する力。これが今の人類にとって非常に重要な意味を持っていると池谷氏は説きます。

「『どれだけ可塑性をもっているか』が重要になる。可塑性が高ければ、先天的なハンディキャップは十分に克服できる。つまり、恵まれない遺伝子のセットを持って生まれた人でも、可塑性さえ高ければ、集団の中でトップになる余地はある。だから、可塑性が重要なんだ。」

ただし進化には「ステージ1」と「ステージ2」があり、後者では可塑性が意味を失い、遺伝子による差異が再び支配的になる。やがて遺伝的多様性を失った種は滅びていく━━という指摘には、ぞっとするようなリアリティがありました。

「創発」が生命をつくる

私たちは「遺伝子=設計図」と思いがちですが、池谷氏はそれを明確に否定します。

「『遺伝子』はよく生命の設計図だと言われるけど、でも僕からみれば、これは設計図ではない。だって僕らの遺伝子はたったの2万2000個しかないんだよ。そんな少数の情報では、人体は組み立てられない。・・・あれは設計図ではなくて、いわばシステムの『ルール』(の一部)でないかな。そのルールに基づいて、分子たちがせっせと単調な作業を繰り返している。すると物質から生命体が生まれてくる。いや、より正確に言えば、創発の結果を単に『生命現象』と呼んでいるだけのこと。」

生命は、単純なルールの繰り返しがもたらす「創発」によって生まれる。この考え方は、生命の神秘を “科学の言葉” で解き明かそうとする試みとして、とても魅力的です。

リカージョンが「私」を複雑にする━━自己という迷宮

「単純な脳が、なぜこんなにも複雑な『私』を生み出せるのか?」という問いに対して、池谷氏は「リカージョン(再帰)」という現象をキーワードに据えています。

「自分の心を考える自分がいる。でも、そんな自分を考える自分がさらにいて、それをまた考える自分がいて・・・とね。そんなふうに再帰を続ければ、あっという間にワーキングメモリは溢れてしまう。」

リカージョンとは、「対象を考える主体」が、対象として自分自身を扱うという思考の構造です。つまり、「自分が自分について考える」ことで、思考は自らの内側へと折り返し、無限ループに陥る可能性をもつのです。

一見高度なこの思考能力は、実は脳の「ワーキングメモリ(作業記憶)」の限界と密接に関係しています。

池谷氏によれば、ワーキングメモリとは「今まさに意識に上っている情報を一時的に保持し、操作する場所」であり、その容量には明確な上限があります。研究によって異なりますが、人間が同時に扱える情報はせいぜい7±2個程度とされています。

「ワーキングメモリには決定的な性質がある。それは、同時に処理できる情報量が限られているということ。・・・そして、ワーキングメモリの容量が一杯になると、僕らは精神的にアップアップになる。」

この限られた容量の中で、「自己について自己が考える」というリカージョンが繰り返されれば、やがてメモリは飽和し、脳は処理不能に陥ります。その結果として、「心とはよくわからない不思議なもの」という印象だけが残るのです。

「だからこそ『心はよくわからない不思議なもの』という印象がついて回ってしまう。でも、その本質はリカージョンの単純な繰り返しにすぎない。」

つまり、「心の不思議さ」は脳の機能が特別だからではなく、再帰的な思考が脳の容量を超えることで生じる “錯覚” のようなものだというのです。

これは、自己というものの正体を「固定された実体」ではなく、「リカージョンによって一時的に生じた動的な現象」として捉える視点につながります。私たちは、自分自身を考えることで自分自身を構成している━━「私」は流動的なプロセスのなかにしか存在しないのかもしれません。

おわりに──「私」とは何かを考えるヒント

ここでご紹介できたのは、あくまで本書の一部にすぎません。記憶、視覚、可塑性、創発、リカージョン━━どのテーマも、「私とは何か」「心とは何か」という根源的な問いに、脳科学の立場から新たな光を当ててくれます。

日常の当たり前を疑い、自分自身を問い直すきっかけとして、ぜひ多くの方に手に取っていただきたい一冊です。