
小熊英二氏(慶應義塾大学教授)の「基礎からわかる論文の書き方」(講談社現代新書)は、様々な学問分野で通用する論文の書き方についてていねいに解説しているので、ここでその一部を紹介したいと思います。
この本の構成は次のようになっています。
はじめに
第1章 論文とは何か
第2章 科学と論文
第3章 主題と対象
第4章 はじめての調べ方
第5章 方法論(調査設計)
第6章 先行研究と学問体系(ディシプリン)
第7章 方法(メソッド)
第8章 研究計画とプレゼンテーション
第9章 構成と文章
第10章 注記と要約
第11章 校正と仕上げ
おわりに
参考文献
第1章 論文とは何か
第1章では、「論文とは何か」ということについて簡潔に述べています。小熊氏によれば、「論文とは、読者に自分の主張を述べ、それを論証し、説得する形式です」。そして、論理的に相手を説得するために、古代ギリシャから唱えられてきた構成として、①主題提起(主題となる問いを提起する)、②論証(証拠を挙げて論証する)、③主題の再確認(問いに対する答えを述べる)、という流れがあると言います。それが原型となり、現代のアメリカでは、「序論・本論・結論」という構成を小学校から学んでいるようですが、このことを次のように解説しています。
アメリカでは、こうした「序論(introduction)」「本論(body)」「結論(conclusion)」の形の「エッセイ」を書くことを、小学校から教えます。「序論」「本論」「結論」の三段重ねなので、「ハンバーガー・エッセイ hamburger essay 」とも呼ばれるようです。
この種類の「エッセイ」の典型は、こういう構成です。
①序論。まず主張を書く。
②本論。主張の論拠を3つのパートに1つずつ書く。
③結論。主張を再確認する。本論が3つの部分で構成されていますから、「序論」「本論1」「本論2」「本論3」「結論」の5部構成です。そのため、「5パラグラフ・エッセイ」と通称されます。序論には全体の主題提起をする文を書き、本論の各パートには最初にそのパートで何を論じるかの文を書きます。・・・パラグラフというのは、段落というよりも、1つの内容のまとまりです。つまり、「エッセイ」を組み立てる部品のようなものです。
最初の序論は、introductory paragraph とも呼ばれます。つかみ hook と呼ばれる、読者の注意をひきつけるエピソードなどから始めることも多いのですが、なんといっても重要なのは、全体の主題を述べる主題文 thesis statement です。つまり、全体の主題をはっきりさせるのが、「序論パラグラフ」の役割です。
途中のパラグラフは、主題を説得的に論証するために、いろいろな役割が与えられています。たとえば比較 comparison や 対比 contract をしたり、問題を定義 definition したり、過程 process や状況を記述 description したり、原因 cause や影響 effect を述べたりして、主題を論証していきます。事実関係をうまくまとめた物語 narrative にすることも、パラグラフの重要な役割の1つとされます。
そして結論のパラグラフでは、主題を再確認したり、論証にもとづく意見や示唆、予測などを述べたりして、全体を締めくくります。もちろん、それぞれのパラグラフでは、その役割に適した文章の書き方や、文章の配置のしかたが教えられます。
つまり、全体が「主題を論証する」という目的のために組織化されている。その目的のために、1つ1つの「パラグラフ」が役割を分担しているわけです。
アメリカではこのような教育が行われているということです。一方で、日本の国語教育では、小熊氏が述べているように「『主人公はどういう気持ちなのか』『著者の言いたいことは何か』といった質問が多くなされ、相手に共感する能力を訓練」しているように思えます。日本とアメリカでの、相手への説得や理解の仕方の違いについて、改めて気づかされます。
次に「レポートとは何か」ということを解説しています。日本の大学で課されるレポートについて、その明確な定義は難しいということですが、ある大学図書館のウェブサイトにおける説明内容について紹介しています。それによると、「レポートとは、問題を提起し、その問題に対して自分の考えを客観的かつ論理的に説明した学術的な文章です」とあります。
小熊氏は、これは「ハンバーガー・エッセイ」と同じ構成だが、「学術的な文章」でなくてはならないことが違うところだ、と言います。すなわち、「文献を調べたり、調査や実験をしたりして、論証の根拠を集めなくてはいけない」ということになります。よくありがちな、単なる感想文ではいけないということです。
また、「どうやって、証拠を挙げるのか」ということについては、「必ず根拠とその出典を明らかにする」ことが必要だと言います。そして、出典を挙げてあれば、捏造(ねつぞう)や他人の剽窃(ひょうせつ)でなないことも証明できるとのことです。
さらに、「調べたことをたくさん書けばいい」というわけではないとも言います。つまり、「主題を論証する根拠として調べた事実をどれだけうまく使えるか」ということが極めて重要だ、ということです。
確かに、単にたくさんの事実を述べて文章量を増やしたとしても、それが論証するための材料になっていなかったとしたら、何の役にも立たないということは理解できます。そうした無駄な文章を読まされる読者の側に立てば、なんと不親切なことか、ということにもつながりそうです。
これは意外なことかもしれませんが、「学術的なレポートの場合は、『こうすべきだ』という『意見』を結論にするのは、あまり勧められていないようです」と説明しています。「この点は、『意見』を結論の類型に含めている『5パラグラフ・エッセイ』と少々異なる点かもしれません。客観的に証拠をもっていえるのは、『論証の再確認』『予測』『示唆』にとどまるべきということでしょう」と、小熊氏は言います。
さて、大学の卒業論文について小熊氏は、「学部の卒業論文は、学士号に値する能力があるかどうかを、審査するものです」と言います。そして、レポートとの違いについては、「学士号を得るための論文は、まだ誰もやったことのない研究をもとにした、学術論文であることが必要です」と本来あるべき姿について述べています。
実際に大学生がそれを意識して卒業論文を書いているだろうかと疑問も湧きますが、小熊氏によれば、「とはいえ学士号を得るための論文は、『世紀の大発見』とか、『学界に一石を投じる研究』とかである必要はない。どんなに小さな研究でもいい。しかし、1つのプロジェクトを企画し、実行し、完成させる能力があるかどうか。それが基準になるわけです」ということす。つまり、いままで誰も行ったことがない画期的な研究をしないといけない、と大きなプレッシャーを感じなくてもいいというわけです。
小さくても自分だけが行うオリジナルな研究を実際にできるのか不安になるかもしれませんが、小熊氏は、「世の中にはたくさんの動植物がある。また、たくさんの社会現象や政治現象や経済現象があります。その全部に、研究者の手はなかなか回り切りません。ですから、この世のほとんどは、じつはまだ研究されていないといっていいでしょう」と言います。これを聞くと、学生も、「それならば、自分でも何か新しい研究が出来そうだ」とやる気になりそうです。
卒業論文を含む学術論文は、型式としては上で述べたようなかたちを踏襲しているが、「自分の研究のどこが新しいか、自分はどのように調査するのかを、最初に示す」ことになる、とのことです。これは自分のオリジナルな研究ということだから、至極当然だと思います。
なお、本書で説明している論文の書き方が、現在多くの国や分野で主流になっているとはいえ、これ以外のやり方もあると、小熊氏は補足説明もしています。
第2章 科学と論文
第2章では、最初に、科学について次のように解説しています。
科学も説得や対話の技法として、発達した側面があります。そのため、説得の技法としての論文と、科学は相性がよい側面があるといえます。
科学はどうして、説得や対話の技法と考えられるのか。それは近代の科学が、論文を公表して、相互批判や追検証を行いながら発達してきたからです。
つまり論文を公表するときは、相手を説得することを想定して書くわけです。それを読んだ人が、意見が違うと思ったら、根拠を示しながら反論する。そうやって議論をしながら、科学は発展してきたとも考えられるわけです。
このあたりは当然のことと思えるのではないでしょうか。自然現象や一般社会における様々な現象において、その仕組み、現象、意味などを解明したいと思えば、根拠を示しながら相手側に説明や説得などを行うというのは多くの場面で行われています。次に小熊氏は、科学では以下のようなことを行っていると説明しています。
①お互いが共有する公理を前提にする。
②その上の根拠と論理を積み上げて論証する。
③その過程と結論を公表し、お互いに追検証する。
④追検証に堪えたものを共有し、それを前提に①からのプロセスをくりかえす。
これを数学を例にして、もう少し具体的に説明をしています。たとえば、ユークリッド幾何学は、「直角は互いに等しい」「直線外の1点を通りこの直線に並行な直線はただ1つある」などの5つの公理を置いていて、これらを前提として「3角形の内角の和は2直角(180度)である」といったことを証明する、と言います。しかし、その前提が違えば、まったく違った結果になるということです。確かに、球面上では、前提が違うので、三角形の内角の和は180度より大きくなってしまうので、「お互いが共有する公理を前提にする」ことの重要性はよくわかります。
このような科学上のプロセスについては、あまり意識をしていなかったのですが、確かにそういう流れで科学が発展してきたのだと改めて意識できました。私自身も、数学以外の場面、たとえば、人と議論をしていても前提が違えば、話がかみ合わないということは経験するので、共通の前提をもとに議論をすることの重要性については、よく理解できます。
このあと、IMRAD(イムラッド)について説明しています。すなわち、自然科学や工学、農学、心理学などの実験を行う研究では、「実験レポート」をもとにして論文を書くことになるが、その際の構成は、IMRAD(イムラッド)と呼ばれていて、次のようになっていると言います。
①導入 Introduction
②資料(対象)と方法 Materials & Methods
③結果 Result
④考察(and)Discussion
この頭文字をとったものです。自然科学などの分野では、こうした形式で論文が書かれることが多いとのことですが、人文科学や社会科学の分野でも、IMRADの要素を論文に取り入れることが増えてきたそうです。とはいえ、人文科学や社会科学では、自然科学系や技術系の学問とは、論文の形式が少々違っています。その理由について、小熊氏は以下のとおり3つ挙げています。
第1は、人間の営みを扱う学問の論文は、「結果」にあたる部分が長いことです。自然科学や工学などの論文では、実験などの「結果 Result」は極端にいえば、数値表が1枚あるだけだったりします。
ところが、人間の営みを扱う学問では、必ずしもそうではありません。政治学の政治過程研究とか、社会学のフィールド調査とかでは、時系列的な記述、インタビューの結果、観察の結果などが記されます。歴史学では史料にもとづいて歴史記述がなされ、文学や思想史ではテキストの引用にもとづいて分析や批判が行われます。法学では、判例や学説の詳細な検討が必要になります。これらの資料を記述し、分析や検討をしていく過程が、自然科学や工学より長くなるわけです。そのため人文・社会科学では、論文が長いことが、充実した内容を示す指標とみなされることもあります。
同じ形式になりにくい第2の理由は、人文・社会科学では、理論的な研究が少なくないことです。IMRADという形式は、特定の対象を調査・実験する研究に適した形式です。、しかし理論的な研究では、「調査」や「実験」をやりません。論理学の論文、経済学や言語学の理論の論文などには、IMRADの形式は適さないといえます。
第3には、人文・社会科学の論文の方が、先行研究の検討が長くなる傾向があることです。その理由は・・・ここで1つだけ挙げておくならば、「先行研究の検討」のところで調査研究や方法についても述べてしまうことがあるのが一因です。
このように、人文・社会科学では、論証の部分が長いなどの理由で、IMRADの型式を取りにくいため、「序論・本論・結論」の型式に、IMRADの要素を組み込んだ論文が多い、と小熊氏は述べています。
また、「人文・社会科学では、自然科学にくらべて、参照した文献が多くなる傾向」があるとのことですが、それは、「人文・社会科学では、調査対象そのものが文書であることも多いためです」とのことです。文献に関しては、「二次資料 secondary source」(他人が調べたもの)ではなく、できるだけ「一次資料 primary source」(自分で調べたもの)を根拠にすることが望ましいとされている、と言います。さすがにこのあたりは、多くの人が知っていることだと思います。
第3章 主題と対象
第3章では、「主題」と「対象」を中心に、おもに人文・社会科学の論文の例で説明されています。ここで、「主題」と「対象」の違いを知らない人が多いと、小熊氏は言います。そして「対象」とは、「目や耳、鼻や指を使うなどして、観測できるもの」であり、「主題」とは、「目で見たり耳で聞いたりできない、普遍的なものを求める問いのようなもの」だということです。別の言い方をすると、「主題は抽象的な問い、対象は具体的に観測できるもの」だということです。
小熊氏は、主題と対象の設定事例を挙げていますので、それを次に示しておきます。
たとえば哲学者の研究で、
「ハンナ・アーレントについて」というテーマで卒論を書こうという人がいたとします。しかしこれでは、アーレントの伝記的事実が主題なのか、思想が主題なのか、わかりません。思想を主題にするにしても、その人が書き残している文書を対象にしないと、具体的な調査ができません。どういう方法で研究するのかも、はっきりしていた方がいいでしょう。そう考えて明確化させると、たとえばこんな感じになります。
「ハンナ・アーレントの労働概念━━アーレントの『人間の条件』とマルクス『資本論』第1巻との比較において」
アーレントが「労働」について何を考えていたかは、直接に観測することはできません。しかし何を書いていたかは、英語やドイツ語で書き残した著作の記述から、観測することができます。そして、それをマルクスやヘーゲルの著作の労働に関する記載と比較しながら、特徴を調査することも可能です。
そうやって、直接には見たり聞いたりできないものを、見たり聞いたりできるものを調査することを通じて、できるだけ明らかにしていく。このように、主題と対象を設定すると、実証的な研究ができると考えられます。
ただし、このようなやり方で「主題」と「対象」を分けて設定するという原則が、あてはまらない学問もある、と言います。数学は、観念化された記号を扱っていて、「見たり聞いたりできる対象」を扱っているわけではないし、論理学なども、こうした分野に入るだろうということです。さらには文学研究の中にも、こうした原則があてはまらない場合があると言います。
ここで小熊氏は主題の決め方についてのアドバイスをしています。その1つは、「先行研究を調べて、まだ先行研究がやっていないことを主題にすること」だと言います。そして、指導教員の先生は、その分野の先行研究をよく知っているので、先生に相談するといいということです。「これはまだ研究されていないから、こういうテーマでやったらいい」と教えてくれる場合もあるそうです。
そして2つ目のやり方は、「自分の関心のあることを、主題にすること」であると言います。「最初は素朴な疑問からスタートしても、明確な主題と対象が定まれば、論文が書けるかもしれません」ということです。
最初のやり方より、こちらのやり方のほうが、意欲を持って取り組むことができると思いますが、あとは、その関心事について、適切に主題と対象を決めていくということだと思います。ここが少し大変そうですが、「先行研究を参考に、自分の主題に適切な対象を探すのもよいと思います。先行研究を自分で探すのが大変な人は、指導教員に相談して、アドバイスを仰ぎましょう」と、小熊氏は言います。
さらに、「主題設定は、問いの設定でもあります。そのため最近は、疑問形にして『リサーチ・クエスチョン』として書きなさい」とよくいわれるそうです。「答えが出る問い、対象を定めて調査ができる問いを立てると、主題と対象を明確化するのに役立ちます」と、小熊氏も勧めています。
第4章からあとは、具体的にどのように研究を進めて、論文として完成させるかということについて具体的に説明がなされています。この部分についてすべてを書くことは難しいので、気になった部分だけ次に示しておきます。
第6章 先行研究と学問体系(ディシプリン)
第6章では、学問体系に関することが書かれています。それぞれの学問には、それぞれ異なる「前提」を置いているので、その結果、対話が難しいことが起こる、ということです。そこで、「どの説が現実をどこまで説明できるか」の競争になることになります。このことを小熊氏は、次のように説明しています。
・・・学問体系がいくつも並立していると、「どの解釈が正しいか」を議論しても、なかなか決着がつきません。そもそも前提が違う学問は、お互いに議論することがむずかしい。そして前提というものは、証拠を集めて論証するようなものではなく、最初に設定するしかないのです。
となれば、「どの説がいちばん現実をどこまで説明できるか」の競争になります。こうして、それぞれの前提の上に仮説を立て、それぞれが調査する。そして、どの前提から作った学問体験が、いちばん現実を説明できるかを競うことになります。
こうしたことは、あまり意識をしてきませんでしたが、この点は重要と思えます。学問の世界だけでなく、ふだんの生活においても、政治、経済、社会の様々な問題において、専門家がそれぞれ独自の見解を述べています。テレビなどでは、「専門家の意見では、○○です」とさらっと放送していますが、実は、その専門家どの学問体系に属しているかで、意見が違ってくるということが言えるというわけです。異なった学問分野に属している別の専門家に言わせれば、違った解釈もあり得るということです。
教育についても、大学教員や教育評論家などが、自分の知見や経験に基づいて、多様な見解や解釈、助言などをしています。その中には、意見の一致をみない場合もあります。それは、「前提が違う」ことが原因だと言ってもよさそうです。そうなると私たちはどう判断すればいいのでしょうか。現実をうまく説明しているのは、どちらなのだろうかと個人個人が判断するということなのかもしれません。
ここでは一部しか紹介できていませんので、興味を持った方は、実際にこの本を購入するなどして、じっくり全体を読んでみてください。