
この9月、手術のために入院した際、私は思いがけず「幻覚」を体験しました。
あまりにもリアルで、生々しく、そして不思議な体験でした。
多くの研究者が指摘するように、私たちは外界を「そのまま」見ているわけではありません。脳は、外から入る断片的な情報をもとに、見えていない部分を補い、不要な部分を省きながら「世界」を再構成しています。
東京大学の池谷裕二教授は、『単純な脳、複雑な「私」』(講談社ブルーバックス)の中で、立命館大学・北岡明佳教授が描いた「動く錯視」のイラストを紹介しています。
静止画であるにもかかわらず、私たちはそれが「動いている」と感じてしまう。脳が現実を補って動きを「つくり出している」からです。

(出典:北岡明佳の錯視のページ「蛇の回転」)
私が体験したのは、これとはまったく異なる現象でした。
まぶたを閉じると、そこにさまざまな形が浮かび上がりました。木の枝がフラクタル状に次々と成長していく様子。皮膚の上を赤い血のようなものが生き物のように広がっていく様子(まるで『もののけ姫』の「乙事主(おっことぬし)」の血潮のように、脈動する生命感がありました。)。
さらに驚いたのは、目を開けて天井を見ていると、天井にこげ茶色のひびが入り、それがゆっくりと広がっていったことです。もちろん実際には、そんなひびは存在しません。
けれど、その瞬間の私には、それが「確かに見えていた」のです。
なぜこんな現象が起きたのか。
手術時の全身麻酔の影響かもしれませんし、その後の鎮痛剤や点滴の成分が関係していたのかもしれません。
マイケル・ポーランは『幻覚剤は役に立つのか』(亜紀書房)の中で、マジックマッシュルームを摂取したときの体験をこう描いています。
「目を閉じるたび、まるでまぶたの裏がスクリーンになったかのように、さまざまなイメージがランダムに湧きだした。『フラクタルなパターン。葉叢(はむら)を貫くトンネル。格子を作っていく紐のようなツタ』・・・」
彼は、目を開けることで現実に戻り、目を閉じることで再び幻想の中へ入る━━まるでチャンネルを切り替えるようだったと記しています。
私の体験も、まさにそれと同じ感覚でした。
私の義母は軽度の認知症を患っていますが、「さっき母親がそこにいた」と言うことがあります。
すでにその「母親」は亡くなっているのですが、今ならその「見えていた」という感覚を、以前よりも深く理解できる気がします。
脳が生み出すイメージは、本人にとってまぎれもない「現実」なのです。
リチャード・ドーキンスは『神は妄想である』(早川書房)の中で、宗教的体験の多くもまた、脳の働きに由来する可能性を指摘しています。
「人間の脳は、第1級のシミュレーション・ソフトウェアを走らせている。私たちの脳は、外部の情報をもとに、たえずアップデートされるモデルを構築しているのだ。」
「この精巧なソフトウェアにとって、幽霊、天使、あるいは聖母マリアをシミュレートすることなど、児戯(じぎ)に等しいだろう。」
脳が作り出す「幻視(ヴィジョン)」は、時に宗教的な体験と結びつきます。
私自身、あの幻覚を経て、神秘的な体験を語る人々の言葉を、これまで以上に真摯に受け止められるようになった気がします。
それは、「幻覚」ではなく、「脳が見せるもうひとつの現実」だったのかもしれません。