
池谷裕二氏と紺野大地氏による本書では、脳研究と人工知能を組み合わせることで、これまで想像の域にとどまっていたような成果が、すでに現実のものとなりつつあることが紹介されています。さらに、こうした研究の延長線上に、将来どのような可能性が開かれていくのかについても、具体的な展望が示されています。
本記事では、その内容の一部を紹介するとともに、読者として特に印象に残った点、考えさせられた点を中心に取り上げてみたいと思います。
第1章 脳とAI融合の「過去」
離れた大陸間で、ネズミが意思疎通する?
第1章では、思わず耳を疑うような研究成果から話が始まります。紹介されているのは、「脳と脳をコンピューターを介してつないだ」研究です。この研究は、デューク大学のミゲル・ニコレリス教授らの研究チームによって、2013年に発表されました。
この実験では、アメリカとブラジルという、地理的に大きく離れた二つの国で飼育されているネズミが用いられました。実験の仕組みは、次のように説明されています。
「この研究では、アメリカとブラジルの研究チームが協力して、それぞれの国で飼育しているネズミを用いました。ネズミが入れられている部屋には左右二つのボタンがあり、アメリカにいるネズミがどちらかのボタンを押したときに、ブラジルにいるネズミがアメリカのネズミと同じボタンを押すことができればエサがもらえる、という仕組みになっています。」
しかし、両者は当然ながら互いの姿を見ることも、音を聞くこともできません。そこで用いられたのが、脳波とインターネットです。
「ニコレリス先生はアメリカのネズミが左右どちらかのボタンを押したときの脳波の情報をインターネットを介してブラジルへと送り、ブラジルにいるネズミの脳を直接刺激したのです。もしもアメリカのネズミが右のボタンを押したときと左のボタンを押したときの脳波が異なっていれば、ブラジルのネズミは何度もその情報を受け取るうちに、アメリカのネズミが左右どちらのボタンを押したのかを判断できるようになるかもしれません。」
では、結果はどうだったのでしょうか。
「なんと、ブラジルのネズミは見事アメリカのネズミがどちらのボタンを押したのかを当てることができるようになりました。アメリカとブラジルという、異なる大陸にいる2匹のネズミが、リアルタイムでコミュニケーションを行うことに成功したのです!」
インターネットを介して、遠く離れたネズミ同士が情報を共有し、行動を一致させることができる━━この事実は、脳と脳を直接つなぐという発想が、もはや空想ではなく、実験的に実現されていることを強く印象づけます。
地磁気を「感じて」迷路を解くネズミ
続いて紹介されるのは、池谷裕二教授の研究室が2015年に発表した、「脳にコンピューターを埋め込んだ」研究です。この研究では、コンピューターを脳に直接組み込むことで、ネズミが本来は持っていないはずの感覚を利用できるようになるという、非常に示唆的な結果が示されました。
「この研究ではまず、視力を失ったネズミの脳に地磁気センサーを含むコンピューターチップを埋め込みました。このチップはネズミが北を向いたときに右脳を電気で直接刺激し、南を向いたときに左脳を刺激するように作られています。私たちは、チップを埋め込んだネズミに迷路を解かせることを試みました。私たちが用意したのはT字型の迷路で、常に東側にエサが配置されています。そのため、迷路を解くためにはコンピューターチップから伝えられる地磁気の情報を利用し、どちらが東なのかを把握しなければならないのです。」
ネズミは、本来、地磁気を感じ取る感覚器官を持っていません。したがって、この課題は、これまでの経験や学習だけでは解くことができないはずのものでした。では、結果はどうなったのでしょうか。
「驚くべきことに、コンピューターチップを脳に埋め込んでからわずか数日後には、ネズミは高い確率で東がどちらかを判別し、エサを手に入れることができるようになったのです! これはすなわち、ネズミがコンピューターチップを介して伝えられる地磁気の情報を活用できるようになったことを意味します。脳はこれまで経験したことがないような刺激に対しても素早く反応し、その情報を活用することができるのです。」
地磁気を「感じる」ための生得的なセンサーを持たないネズミであっても、地磁気センサーを含むコンピューターチップを脳に埋め込むことで、脳は初めて接する情報を柔軟に取り込み、行動に結びつけることができるようになりました。この結果は、脳の可塑性の高さを、極めて端的に示しているように思われます。
こうした事例を踏まえ、著者は次のように述べています。
「私たちは『進化しすぎた脳』のキャパシティを十分に活用しきれておらず、宝の持ち腐れになっているのかもしれません。」
脳は、進化の過程で獲得してきた能力のすべてを、日常生活のなかで使い切っているわけではない━━この指摘は、本書全体を貫く重要な問題意識を、強く印象づけるものです。
「念じる」だけでロボットをあやつる
続いて本書では、「脳とコンピューターをつなぐ」研究が紹介されます。こうした研究は一般に、「BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)」と呼ばれています。BMI研究の代表的な成果の一つが、「念じるだけでロボットをあやつる」技術です。
その仕組みは、次のように説明されています。
「BMIでは、『異なることを想像しているときには、異なる脳活動が生じている』という事実を利用しています。すなわち、『右手でコップをつかんでいることを想像しているとき』にはロボットの右腕がコップをつかむように事前にプログラムし、『左手を机の上に置いていることを想像しているとき』にはロボットの左腕を机の上に置くように決めておくのです。このようにして、体が動かなくなってしまった患者さんでも脳活動だけでロボットをあやつることができるようになります。」
ここで重要なのは、脳が発する信号そのものが、「意図」や「行為」を表す情報として読み取られている点です。身体が動かなくなっても、「動かそうとする」脳の活動は残っており、それを機械が受け取ることで、新たな行動の回路が開かれるのです。
本書では、すでに実現している成果についても触れられています。
「2012年の時点では人間の患者さんにおいて、念じるだけでロボットアームを動かし、ペットボトルの水を飲むことに成功しています。遠からず、手足が動かなくなった患者さんが念じるだけで車椅子やロボットを操作することが当たり前になる日が来るかもしれません。」
著者は、このような技術がさらに発展すれば、手や足を自由に動かすことができなくなった人々が、「念じるだけで」車椅子やロボットを操作することが、ごく当たり前の光景になるかもしれないと述べています。そうした未来が実現すれば、日常生活の自立が大きく広がり、多くの人にとって大きな助けとなるでしょう。
第2章 脳とAI融合の「現在」
第2章では、脳科学と人工知能の分野における最先端の研究成果が紹介され、両者の結びつきが急速に強まっている現在の状況が描き出されています。第1章で示された「可能性」が、すでに実験室の中だけの話ではなく、現実の技術として形を取り始めていることが、具体例を通して示されていきます。
たとえば、アメリカ・カリフォルニア大学サンフランシスコ校のエドワード・チャン教授らの研究チームは、脳活動を人工知能で読み取ることによって、人が考えている内容を直接「文章」として翻訳する研究を進めています。これは、言葉を発することが難しい人々にとって、新たなコミュニケーション手段を切り開く可能性を秘めたものです。
また、京都大学の神谷之康(かみたに・ゆきやす)教授らの研究チームによる、他人が見ている夢を人工知能によって読み取る研究も紹介されています。人が頭の中で見ている映像や体験を、脳活動のパターンから再構成しようとするこの試みは、「心の中身」に直接迫る研究として強い印象を残します。
さらに、ジーヨン・ファン氏らが率いる香港とアメリカの研究グループによる、「人工眼球」の研究にも触れられています。この研究は、後天的に視力を失った人が再び「見る」ことができるようになることを目標としており、脳と人工デバイスをつなぐ技術が、感覚そのものを回復・補完する段階に入りつつあることを示しています。
第3章 脳とAI融合の「未来」
脳研究における「三つの目標」
第3章では、脳研究と人工知能の分野が今後どのような方向へ進んでいくのか、いわば「脳とAI融合の未来像」が描かれています。その見通しを示す軸として、本書では、神経科学を代表する研究者の一人であるニューヨーク大学のジョージ・ブザキ教授が提示した「次世代の脳研究の三つの目標」が紹介されています。
その三つとは、次のようなものです。
1.高い精度で「脳情報の読み取り」と「脳への情報の書き込み」を行う技術の開発
2.BMIなどを用いた神経・精神疾患の治療
3.赤外線、紫外線、放射線、磁気などの新たなモダリティの知覚獲得
まず一つ目は、「脳情報の読み取り」と「脳への情報の書き込み」に関する目標です。本書では、この二つが対になる概念として、次のように説明されています。
「『脳情報の読み取り』とは、『記録した脳活動から、その人の考えていることや気分を読み取ること』を意味します。たとえば、『脳活動を人工知能で読み取り、その人が考えていることを文章に翻訳する』ことは代表的な例です。
一方、『脳への情報の書き込み』とは、『脳を適切に刺激することで、狙った運動や感覚を生じさせること』です。たとえば、『視覚を司る脳領域を刺激することで、実際には存在しないリンゴを “見える” ようにする』ことは具体的な例になります。」
このような技術の実現には、まだ多くの課題が残されています。「脳情報の読み取り」については、脳活動をより高い精度で記録する技術が不可欠であり、近年ではアメリカのベンチャー企業である Kernel が、脳活動記録デバイスの開発に積極的に取り組んでいることが紹介されています。
一方、「脳への情報の書き込み」については、そもそも脳がどのように刺激を解釈し、感覚や行動へと変換しているのか、未解明な点が非常に多く、今後の研究の進展が強く期待されています。
二つ目の目標は、「BMIなどを用いた神経・精神疾患の治療」です。BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)とは、「脳情報を利用することで、脳とコンピューターを直接つなぐテクノロジー」のことを指します。本書では、BMIの現状と将来像について、次のように説明されています。
「2021年現在では、BMIは主に四肢麻痺の患者さんが車椅子を動かすことやコンピューター上のマウスを操作することなどに用いられています。しかし、BMIは今よりもずっと広い範囲に応用可能であり、将来的には神経疾患や精神疾患の治療にも活用できると考えられます。」
ここで紹介されるのが、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のエドワード・チャン教授らの研究チームによる、重症うつ病患者を対象とした研究です。
「重症のうつ病患者に手術を行い、複数の脳領域に電極を埋め込みました。そして、埋め込まれた電極で10日間持続的に脳活動を記録することで、『このような脳活動のときには患者がこういう気分である』という関係性を人工知能に学習させたのです。これはすなわち、『脳活動から患者の気分を推定できる』ということです。」
さらにこの研究では、そこから一歩踏み込み、次の仮説が立てられました。
「患者の気分が落ち込んでいるときに脳を電気刺激すれば、うつ気分が改善する」
そして、その結果について、本書は次のように伝えています。
「なんと、適切なタイミングで脳を電気刺激することにより、患者のうつ気分は見事に改善されたのです!」
この研究は一人の患者を対象としたものではありますが、現在は患者数を増やしながら研究が継続されており、今後の成果が注目されています。こうした流れを受けて、著者は次のように述べています。
「『脳活動からその人の状態を判定し、その結果に応じて脳を刺激することで症状を緩和する』という手法は、原理的にはうつ病だけでなくパーキンソン病や統合失調症など、様々な神経・精神疾患の治療に応用することが可能です。」
三つ目の目標は、「赤外線、紫外線、放射線、磁気などの新たなモダリティの知覚獲得」です。この点については、すでに動物実験の段階では達成されている例もあります。
たとえば、第1章で紹介されたように、著者の研究室では、ネズミの脳にチップを埋め込むことで「地磁気を感じる」ことに成功しています。また、「赤外線を感じる」ことについても、デューク大学のミゲル・ニコレリス教授によるネズミの研究で達成されていると紹介されています。
こうした成果を踏まえ、著者は次のように述べています。
「これらの事実を踏まえると、紫外線や放射線も脳へのチップ埋め込みにより知覚できる可能性は十分にあると考えられます。もちろん、これらの研究結果を人間に対して適用するには、倫理面など乗り越えなければならない課題はたくさんありますが、原理的に可能であるという事実はとても勇気づけられます。」
脳と人工知能研究の進歩で科学はどう変わるのか
この節では、本書の議論は単なる技術紹介を超え、「科学とはそもそも何か」「私たちはどのように世界を理解してきたのか」という根本的な問いへと踏み込んでいきます。とりわけ印象的だったのが、「科学の在り方」そのものを問い直す議論です。
まず取り上げられるのが、「オッカムのカミソリ」という考え方です。
「オッカムのカミソリとは、『ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない』という考え方であり、14世紀の哲学者オッカムにより提唱されました。これは科学における、『なるべく少ない原理だけで自然界を説明しよう』という価値観につながっています。」
この考え方は直感的にも理解しやすく、複雑な世界の現象がシンプルな原理で説明できれば、私たちは「よく分かった」と感じて安心します。しかし、本書はここで立ち止まり、その前提自体に疑問を投げかけます。
「ですが、ここで一度立ち止まって考えてみましょう。そもそも、なぜ私たちは『なるべく少ない原理だけで自然界を説明できる』ことを良しとするのでしょうか? そのような法則を美しいと感じるのはどうしてでしょうか?」
この問いに対して見解を示しているのが、プリファード・ネットワークスのフェローである丸山宏氏です。丸山氏は、「オッカムのカミソリ」という考え方そのものが、人間の認知の限界から生まれている可能性を指摘します。つまり、自然界をなるべくシンプルに説明しようとする姿勢は、「世界が本当にシンプルだから」ではなく、「人間の脳が複雑さを扱いきれないから」なのではないか、という問題提起です。
ところが、人工知能の登場によって、この前提が大きく揺さぶられ始めています。
「人工知能(ディープラーニング)は、数百億や数千億という膨大な数の変数を活用して世界をモデル化します(さらに多くの変数を持つ人工知能も山ほど存在します)。このように、『大量の変数を用いて世界をモデル化する科学のあり方』を丸山先生は『高次元科学』と表現しています。
大量の変数を用いることで、人工知能が計算可能な現象は加速度的に増えています。たとえば、翌日の天気を単純な方程式で記述することは不可能ですが、大量の変数を用いたモデル化により天気予報の精度は近年大幅に向上しています。」
このように、人工知能は人間の直観や理解可能性を超えた次元で、世界を正確にモデル化しつつあります。しかし、その進歩と引き換えに、新たな問題も生じています。それが、「人工知能のブラックボックス問題」です。
「これは、『人工知能がなぜその答えを導き出したのかが人間には理解できない』という問題です。なぜこのような問題が生じるのでしょうか? 一つには、人工知能が扱う変数の数が膨大すぎるため、人間がその計算過程を直観的に理解できないことから生じていると考えられます。
このような『人工知能は世界を正しくモデル化するけれど、人間はその計算過程や根拠をまったく理解できない』という傾向は、この先ますます加速していくことでしょう。」
こうした議論を読み進めていると、私たちがこれまで当たり前のように求めてきた「理解の仕方」そのものについて、あらためて考え直したくなります。
私たちはよく、「分かりやすい説明ですね」と言ったり、聞いたりします。しかし、その「分かりやすさ」は、本当に世界を理解したことを意味しているのでしょうか。単純で明快な説明は、強い説得力を持ちますが、その一方で、複雑で捉えにくい現実の一部を切り捨ててしまっている可能性もあります。
「納得した気になること」と「本当に理解すること」とのあいだには、思っている以上に大きな隔たりがあるのかもしれません。






