
インターネットが発達したいま、私たちはさまざまな意見に日常的に触れることができます。そして、自分自身の考えを発信する手段も整っています。一見すれば、多様な価値観に開かれた社会のように思えます。
けれども、最近ふと感じるのは、「深く考え続けること」をやめてしまっている人が増えているのではないか、ということです。自分の中にある「正しさ」や「常識」を疑うことなく、他人の言葉を借りてそのまま行動し、思考を止めてしまってはいないでしょうか。
たとえば、私たちはこんな価値観を無意識に受け入れてきたかもしれません。
学校で教わったこと:
- 「勉強ができる人が偉い」
- 「友達は多いほうがいい」
- 「明るい性格のほうが望ましい」
- 「努力は何より大事だ」
- 「努力すれば必ず報われる」
- 「教師や先輩には反論してはいけない」
- 「校則やルールは絶対に守るものだ」
親から言われたこと:
- 「他人に迷惑をかけてはいけない」
- 「恥をかくことは避けるべき」
- 「うそをついてはいけない」
- 「いい大学に入らなければならない」
仲間内の暗黙のルール:
- 「空気を読みながら発言・行動しなければならない」
- 「仲間を裏切ってはいけない」
好きな著名人の意見:
- 「この人の言うことなら間違いない」
- 「この人が勧めている商品だから、信じられる」
メディアで繰り返される言説:
- 「テレビ番組で言っているのだから、その意見が正しいのだろう」
- 「SNSで多くの人が言っているのだから、これが世の中の声だ」
こうした考え方には、それぞれ意味もあり、ある場面では役立つかもしれません。しかし、それを絶対視してしまうと、異なる考えや価値観を持つ人を無意識のうちに排除しがちです。
SNSのコメント欄などでは、異論に対して激しく攻撃的な反応が見られることがあります。「自分の考えこそ正しい」と信じ込み、反対意見を叩きのめそうとする。そこにあるのは、もはや議論ではなく“思考の停止”です。
さらに、「自分がどれほど賢いか」「どれだけ論破できるか」を競うような風潮━━いわゆる「マウント合戦」も、同じく思考停止の一種だと感じます。考えているようで、実は自分の立場やプライドを守るための反射にすぎない。
文化の違いに目を向けると、自分の「常識」が実は特殊なものであることに気づくことがあります。
私がかつてフランスの語学学校に通っていたときのことです。授業中にわからないことがあると、韓国やメキシコから来たクラスメートは遠慮なく質問していました。一方、日本人は「あとで自分で調べるから」と黙ってしまう傾向が強かった。これは、日本社会で自然に身についた態度です。
また、先生が机に腰かけながらリラックスした雰囲気で授業を進める場面もありました。日本では考えにくい光景ですが、それが当たり前の国もある。さらには、生徒たちの提案によって授業時間の変更が受け入れられるなど、柔軟な対応もありました。
こうした経験を通じて思うのは、自分が「正しい」と信じていることを、一度立ち止まって見つめ直す必要がある、ということです。
たしかに、最終的には判断や決断が必要な場面もあります。しかし、そこに至るまでの過程で、前例や慣習、人の目に流されず、より多くの考え方に触れながら、自分の頭で深く考え抜くこと。その姿勢こそが、いま求められているのではないでしょうか。
「それは本当に、自分の考えなのか?」
そう自分に問い続けることが、思考を止めないということなのだと思います。