これは、ある人から聞いた話です。ここから正義とは何かということについて改めて考えるようになりました。

ある夫婦が、ご主人の実家に引っ越して同居したのですが、そこでトラブルが発生しました。

ご主人の母親は、元気で体もよく動くのですが、だいぶ高齢(90歳近い年齢)となっていました。父親のほうはすでに亡くなっていたので、その母親は広い家に1人で住んでいました。
そこで、母親が高齢になってきたことや、家計も助かるということもあり、別の住宅に住んでいたその夫婦が同居することになりました。

同居の話を母親にしたときには、特に嫌がることもなかったので、安心しきっていたようです。また、これまでその夫婦が実家を訪れた時には、特に問題もなく楽しそうに会話していたようです。

引越しして間もない頃は、うまくいっていたようでしたが、だんだんとそうではなくなりました。引っ越してきた夫婦のうちの奥さんのほうは身体障害者なのですが、その身体障害者に対して、あまりにも理解がないことが判明したのです。

以前住んでいた住宅では、玄関、トイレなどに突っ張り棒を設置して、それを使って体を支え、玄関に上がったり、トイレで立ち上がったりしていました。引っ越し先の家で、同じように突っ張り棒を設置してもらおうと相談したのですが、次のように言われてしまいました。

「そちらから持ってきた靴を玄関に置いてあるせいで狭くなって、いやな思いをしているんだからね。玄関はすっきりさせておきたいから、突っ張り棒の設置には反対だからね。」
「そのようなもの(突っ張り棒)を設置するのは、あなたのわがままでしょう。亡くなったお父さんは足が悪かったけど、なにも使わないで、我慢強くがんばっていましたよ。あなたもがんばればいいのよ。」

嫁側としては、生活上どうしても必要なので、突っ張り棒を設置してもらいたかったのですが、姑側は同じ主張を繰り返すのみで、許そうとはしませんでした。

一般的には、この嫁側の主張が「正義」だと思えるのですが、姑側は自分が「正義」だと思っています。いくら身体障害者がつらいかを説明してもわかってもらえず、結局、力関係によって、姑側が「正義」になってしまいました。このようなことは、社会のあちらこちらにもありそうなことです。

2人だけの場合には力関係で決まってしまいそうですが、より「正義」に近づけようとすると、世間の目から判断することになるのでしょう。しかしここにも問題がありそうです。

現代のネット社会において、批判的な意見が多数であった場合どうなのでしょうか。例えば、パリオリンピックに出場することになっていた宮田笙子選手が、飲酒・喫煙によって、出場を辞退するまでに追い込まれたケースでは、日本体操協会の対応に対して、ネット上では、「なにも辞退させる必要はなかったのではないか」という意見と、「ルールを破ったからにはそれは当然である」という賛否両論があり、ルールを破ったほうが悪いという意見が圧倒的多数でした。

武井壮氏の「オリンピックに出るという、多大なる国の予算を使って、強化の費用を使ってナショナルトレーニングセンターや遠征をおこなっている選手が、そんなルールすら守れなかったら、当然外される。僕はそれぐらいでいいと思っている」との意見に対して、「武井さんの意見、正論だと思う」というコメントが多数寄せられました。

ルールを破ったからそのくらいのペナルティは当然であるという意見は、シンプルでいいのですが、もっと深く議論して結論を出す問題であろうと思われます。例えば、弁護士の若狭勝氏は、宮田の飲酒・喫煙については法律違反にはなるものの「罰金などの処罰規定はないため犯罪に問われることがない。にもかかわらず代表辞退ということは少し行き過ぎではないか」としています。さらに「ルールはルールだから代表辞退は妥当」という考えについては、「規約違反ではあるが、諸外国では出場辞退にはならない。処分は段階を踏んで行っていくもの。そうでもない時には指導したり反省を促すことだけでも効果があると思う」としたうえで、「やったことと比例した処分であるのかというと、かなり重い処分」との見解を述べています。

ルールを破ったことに対する処分の程度をどうするのかという問題だと思うのですが、そこまで考察してコメントをしている人はあまりおらず、「ともかく、ルールを破ったのだから重いペナルティが課されても当然だ」という雰囲気になってしまっています。一時の感情による議論の流れで出された、しかし、圧倒的な多数の人が賛同した結論だとしてもそれを直ちに「正義」といっていいかは疑問が残ります。

ではどうやって「正義」を見つければいいのでしょうか。そして、正義は一つなのでしょうか。少し考える必要がありそうです。これについては別の機会に書きたいと思います。