教育基本法第1条は、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」と書いてあります。つまり、教育は人格の完成を目指すことということになります。

では「人格の完成」とは何かという問いに対して、文部科学省では、
「人格の完成」: 個人の価値と尊厳との認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめること(「教育基本法制定の要旨」昭和22年文部省訓令)。
真、善、美の価値に関する科学的能力、道徳的能力、芸術的能力などの発展完成。人間の諸特性、諸能力をただ自然のままに伸ばすことではなく、普遍的な規準によって、そのあるべき姿にまでもちきたすことでなければならない(「教育基本法の解説」)。
と説明しています。

また、教育基本法改正の審議のなかで、次のような議論がなされています。

中井委員 政府案では、第一条冒頭、「教育は、人格の完成を目指し、」とございます。これは現行法と同じであります。私は数年前から、何回かこの現行法、教育基本法を読み直したのですが、物すごくきれいで、物すごく立派に書いているな、これは本当に現場で大変苦労するなということを実感として抱いてまいりました。その一番の思いはここであります、人格の完成を目指すのが教育の目的だと。

 人格の完成というのはどういうことを言うのでしょうか。また、大臣は、人格が完成したというのはどういう人だとお思いになっていらっしゃいますか。例を挙げることができますか。全然構いません、おっしゃってください。

小坂国務大臣 政府案第一条で言っております人格の完成は、現行法においても教育の目的とされておるわけでございますが、各個人の備えるあらゆる能力を可能な限り、かつ調和的に発展させることを意味するものである、このようにされております。このような人格の完成は、教育の目的として普遍的なものであることから、今回の法案においても引き続き規定することとしたものでございます。

 それでは、人格の完成とは、どのような人なのか例示してみろ、こう言われたら、これは私は例として申し上げる人はおらないわけでございます。すなわち、人格の完成というのは、私は神のことだと思うのでございますね。ですから、神のような全知全能を備えたものを目指すといっても、これは到底到達できるものではございません。だからこそ目指すのであって、それが実現するということは恐らく一生を通じてなし得ないかもしれないしかし常にそれを目指せということで、「人格の完成を目指し、」と言っているんだと私は思っておるわけでございます。

中井委員 教育で神のような人格完成を目指すというのは本当にできるのでしょうか。また、そんなことが目標というような法律でいいものかと僕は思わざるを得ません。

第164回国会 教育基本法に関する特別委員会 第12号(平成18年6月8日(木曜日)

ここで言われていることは、多くの人が納得しそうな気がします。幼いことからずっと勉強をし続け、あたかも修行を続けるように、常に自己を磨いていく。いかにも理想的な人間のように思えます。

教育する側の立場と学習する側の立場

ここで教育という現象を、教育する側の立場(例えば、教師や学校)と教育を受ける側の立場、すなわち学習する側の立場(例えば、生徒や学生)という立場の違いから考えてみることにします。

教育をする側の立場からすると、学習者に対して、「人格の完成」、すなわち、「個人の価値と尊厳との認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめる」ように最善を尽くす責務があると言えましょう。生徒等に対して、国語、数学、外国語、理科、社会、音楽、美術、保健体育、技術・家庭等の各教科、道徳などを最新の情報に基づき、系統的に、わかりやすいように教えていくことが仕事となります。

一方で、学習する側の立場からすると、そうした教育環境のもとで、できればあらゆることを学習し、かなりのレベルで理解できるよになることが理想でしょうが、現実的には、苦手意識があったり、面倒であったり、暗記できない、複雑で理解できない、といった様々な理由から、すべての教科等にいい点数をとることができないことはあり得ます。教師や親は、親切心から、もっとしっかり勉強するように叱咤激励するでしょうが、最終的に、どうするかは本人の意思ということになると思います。

そもそも、人格の完成とは、どういう状態なのでしょうか。

戦後まもないころに教育基本法ができたとき、そして教育基本法の改正が議論されたときは、まだAI(人工知能)、生成AI、Chat-GPTといったものの存在を意識することはできなかったでしょう。

しかし、現代、世界中にある膨大な情報はAIによって収集され、それを人間が望むような形でChat-GPTなどの生成AIがある「答え」を提供してくれます。わざわざ難しい外国語を時間をかけて学ばなくても、自動翻訳によって、コミュニケーションがとれるようになっています。

「一生を通じてもなしえないことを常に目指していく」というよりも、AIなどをうまく活用できる能力を身につけるほうが、よいのではないかと思うのです。

さらに、「人格の完成」をめざす、といったことにこだわりすぎると、人生が窮屈になるのではないかという疑問もあります。

例えば、中学校や高校でまじめに勉強して、偏差値の高い大学に入ります。大学に入ってからは、勉強、部活、バイト、インターンななどをきちんとやって、大手企業に就職します。海外との取引もあるので、英語をかなり勉強してTOEIC900点をとります。しかし、英語だけではなく、そのあとフランス語、スペイン語、中国語、韓国語でもコミュニケーションできるように勉強します。見聞を広めるために、海外旅行にも出かけ、50か国ぐらいは回ります。地元のボランティアにも積極的に取り組みます。資格についても、宅地建物取引士、簿記、FP(ファイナンシャルプランナー)、税理士、社会保険労務士、行政書士、司法書士などに挑戦していきます。文学、芸術、経済、社会、哲学、科学など多くのジャンルの読書をします。映画、美術、音楽、演劇などにも精通し、また、ゴルフ、テニス、水泳、マラソンなども練習を続け、かなりいい成績を収めています。といった具合ですが、これでは、時間がいくらあっても足りませんし、常に、完成をめざさないといけないということで、気が休まることもないでしょう。

また決して完成はしないし、どのくらい完成したといった達成度もわからないので、これでは「沼」にはまったようです。

そこで、なんでも手を出して「完成」を目指すのではなく、限られた、例えば80年、あるいは100年という自分に与えられた時間のことを考え、勉強に費やす時間や息抜きの時間など、うまく時間配分をし、生きている時間を楽しみ、充実させていくくことこそが、いいのではと思うのです。天才や秀才と言われなくてもいいし、博識でなくてもいいのです。他人と競うことも疲れます。そしてそうした細かい情報収集、検索、とりまとめ、表現といったことの多くは、いまやAIなどが代わりにやってくれますし、さらにAIは進化を続けるでしょう。

教育とは適応力をつけさせる行為

上記のように、教育基本法の解説の中で、「真、善、美の価値に関する科学的能力、道徳的能力、芸術的能力などの発展完成。人間の諸特性、諸能力をただ自然のままに伸ばすことではなく、普遍的な規準によって、そのあるべき姿にまでもちきたすことでなければならない」としています。そこから、例えば、「教育とは、その人がもっている能力を最大限に伸ばすようにすること」ともいえそうです。

しかし、私が近頃考えているのは、「教育とは、その人がこれからの人生においてその人らしく生きていける適応力を身につけられるように支援することである。」と定義したらどうかということです。それは、人間がある理想とする姿に向かってその能力を最大限に伸ばすということは不可能だと思うからです。理想とする姿とは何かがはっきりしないし、時代によってそれは変わり得るからです。

自分たちの職場や近所に外国人が多くなれば、教育を受けてきたこと、習慣や価値観などが違うので、お互いに違和感を感じることでしょう。しかし、そこでうまく仕事をしていくためには、お互いを理解することが求められます。しかし理屈はわかっていたも、自分の思いを一方的に主張するその人とは一緒に働けないということもあり得えます。

そこでどうするのか。例えば、いままで学習してきたことをもとに考えてみる。さらに、相手の国に関する本を読んでみる、その人からいろいろな話を聞く、といった行為を通じて、多くを学んでいくことで歩み寄れることもあるでしょう。さらに、「価値観がお互いに違うけど、共通のルールをつくって、そのもとで仕事をしましょう」ということもあり得ましょう。

そのように、社会環境がどうなっても、さらには自然環境がどうなっても、AIの発展がどうなっても、その環境にいかにうまく適応させて、楽しく生きていけるか、ということがカギになるように思えるのです。

そうすると、学校にいる間、いまを大切にし興味のある分野に一生懸命に取り組む。しかし一方で5年後とか10年後のことも考え、一定の計画をもって勉強をして、独立して生きていけるだけの力を身につけておく。さらに、50年後といった長期的なことも頭の片隅においておく、といったことでいいのではないでしょうか。

現在、社会の分断が進んでいるともいわれますが、異なった価値観をもった人たちと共存できる力、さらには、AIが発達してシンギュラリティが起こったとしても、AIとも共存していく力を身につけることも求められるでしょう。