
橘玲氏(作家)と安藤寿康氏(慶應義塾大学名誉教授)による対談形式の書籍『運は遺伝する』(NHK出版新書)を読みました。全体としては、安藤氏が慎重に言葉を選びながら、自身の見解を丁寧に述べている印象を受けました。
しかしながら、読後にはいくつかの疑問が残りました。内容には考えさせられる点も含まれていましたが、それと同時に、提示された主張や根拠の一部には納得しきれない部分もありました。以下に、そのような疑問点や引っかかりを記録として残しておきたいと思います。
「運」は遺伝するのか?
書のタイトルである「運は遺伝する」という言葉には、誰もが耳を疑うようなインパクトがあります。はたして、運というあいまいで不確かなものが本当に遺伝するのか? その疑問を胸に本書を読み進めたのですが、正面からこの主張を裏付けるような説明は、なかなか見当たりませんでした。唯一それに近いと感じられたのは、次のような一節です。
橘「今回、安藤さんにあらためて行動遺伝学について伺ってみたいと思ったのは、『運は遺伝する』という話に衝撃を受けたからです。」
安藤「人生のすべてに遺伝が関わっていますから、もちろん運も例外ではありません。」
この発言からは、人生に関わるあらゆる出来事に遺伝が関与しているという、非常に包括的な立場がうかがえます。さらに引用される研究も紹介されます。
橘「ご著書の『「心は遺伝する」とどうして言えるのか━━ふたご研究のロジックとその先へ』(創元社、2017年)で、ストレスを感じるようなライフイベントにどの程度、遺伝の影響があるかの研究が紹介されてますよね。病気になったり、近しい人が亡くなったり、強盗に遭うなど、一般的には運が悪かったとされる偶然の出来事と、離婚や解雇、お金の問題など、本人にも責任があると見なされる出来事を比較したところ、偶然の出来事の26%が遺伝で説明でき、本人に依存する出来事の遺伝率30%と統計的に有意な差はなかった。」
このデータによれば、たとえば強盗被害に遭うといった「偶然的な不運」も、ある程度は遺伝的な要因で説明できるというのです。にわかには受け入れがたい話です。
もちろん、病気には遺伝的素因があるかもしれませんし、親しい人の死が遺伝的に近い関係であれば「遺伝を共有している」とも言えるでしょう。強盗に遭うケースでも、「危険な地域に近づきやすい」「目立つ行動をとりがち」といった性格傾向が関係しているのだとすれば、そこに何らかの遺伝的影響を見出すことは可能かもしれません。
安藤「それは自分自身の行動や選択だけでなく、まわりの環境や人物を選ぶときにも遺伝的要因が関わっているからです。」
しかし、ここでの論理には大きな飛躍があるように思えます。たとえば、仮に「目立つ行動をとる傾向」が遺伝的に由来していたとしても、それが直ちに「強盗に遭うリスク」に結びつくとは限らないからです。そこには社会的な背景や、偶然の重なりなど、無数の非遺伝的要因が絡んでいるはずです。それらを排除したまま、「26%は遺伝で説明できる」と断じてしまうのは、統計上の相関を因果にすり替える危険な論法と言えるでしょう。
たとえば、知人が交通事故に遭ったとき、私たちは「運が悪かったね」と声をかけるのが普通です。しかし、もしその事故が信号無視や危険運転によるものであれば、「それは偶然ではなく本人の行動の結果だ」と判断するかもしれません。つまり、「偶然」と「自己責任」のあいだには本来、慎重な区別が必要なのです。にもかかわらず、どちらも「遺伝で説明できる」とされるこの研究は、人間の生をあまりに単純化しているように思えてなりません。
そもそも「運は遺伝する」という言葉から、多くの人が直感的に想像するのは、「幸運な人の子や孫もまた幸運になる」といった、いわば “幸運体質” が遺伝するというイメージでしょう。たとえば、「宝くじに当たるような運のよさ」が親から子へと伝わる、といった具合です。しかし、本書で扱っているのはそうした意味での「運」ではなく、事故や災害、不運な出来事において、ある種の行動傾向や選択のパターンに遺伝が影響しているかもしれないという、かなり限定的かつ間接的な議論です。
つまり、本書が実際に述べている内容と、タイトルの示唆する印象との間には、大きなズレがあります。「運は遺伝する」という言葉は、読者の関心を引くためのコピーとしては巧妙ですが、内容と比べると誤解を誘う表現であると言わざるを得ません。
結局のところ、「運が遺伝する」と断言するには、根拠も説明も決して十分とは言えません。本書が試みているのは、遺伝と環境の相互作用に関する興味深い探求ではありますが、それを「運」という曖昧で多義的な言葉でひとまとめにしてしまうことによって、かえって議論を混乱させているようにも感じられます。
遺伝率のデータをどう解釈するのか?
本書では、読者の理解に誤解を生みかねないようなデータも紹介されています。たとえば、橘氏との対話の中で次のような記述があります。
橘 ここでは、アメリカの保守思想家チャールズ・マレーが・・・掲載した数値を使うことにします。次ページの表では心理学的な特徴を「パーソナリティ」「能力」「社会行動」「精神障害」「幼年期と思春期の精神障害」「その他の精神障害」に大きく分けているのですが、一見してわかるのは遺伝率と非共有環境の割合が高く、共有環境の影響がきわめて小さいことです。・・・遺伝率を見ると、計算や認知、学歴のような「知能」だけではなく、やる気や集中力のような「性格」とされるものも、ほぼ半分は遺伝で説明できる。・・・人間関係や家族関係、子育て、宗教とスピリチュアリティといった、ふつうは遺伝との関係で語られることのない要素にもかなりの遺伝率(3割程度)が見られることです。
この発言だけを見ると、「やる気」「集中力」「子育て観」「宗教性」など、人間の経験や価値観に深く関係していると考えられてきた領域でさえ、かなりの割合が遺伝によって説明できるという印象を与えます。しかし、その前提となる「遺伝率」とは何かを理解しないままにこのデータを受け取ってしまえば、大きな誤解が生じかねません。
まず、「遺伝率」とは何かを確認しておく必要があります。遺伝率とは、ある特性の個人差が、どの程度「遺伝」によって説明できるかを示す統計的な割合のことです。たとえば「知能」や「性格」の違いが、遺伝によるものなのか、家庭環境やその他の要因によるものなのかを見極めるために、双子を比較するという方法がよく用いられます。
このとき重要となるのが、「共有環境」と「非共有環境」という考え方です。安藤氏は次のように説明しています。
安藤 まず共有環境というのは、遺伝以外で家族を類似させている要因です。家族には、きょうだいだけでなく親子などの同居している血縁者を含みます。これに対して、非共有環境は家族を異ならせている要因を指します。
具体的には、次のような数値を例にとって説明されています。
「ある集団のIQについての調査結果で、一卵性双生児の相関係数が0.73、二卵性双生児が0.46だったとしましょう。一卵性双生児ペアのIQが完全に同じであれば、相関係数は1になるはずですが、実際は0.27だけ足りない。これは、育った環境が同じでも似ていない部分があり、それは非共有環境による、という解釈です。」
こうした「環境」は、日々の暮らしの中で子どもに与えられる刺激や習慣といった具体的な出来事を指しているわけではなく、双子の比較などから統計的に導出された抽象的な要因であるという点に注意が必要です。
橘 その意味での共有環境、非共有環境は、何か具体的なことを言っているのではなく、あくまでも統計的に導出されるものですよね。
したがって、「遺伝率」「共有環境」「非共有環境」という3つの要素は、個別の家庭で何が起こったかを直接示すものではなく、集団全体の傾向を示す推計に過ぎないということをまず理解しておく必要があります。
ところが、その結果として示された表では、たとえば「やる気」「集中力」「記憶力」「家族関係」といった項目において、共有環境の影響が0~6%と極めて低く、「家庭の影響はほとんどない」と読めてしまう数値が並んでいます。親の育児や家庭内の教育がこれほどまでに「効果がない」とされるのは、にわかには信じがたい話です。
安藤氏自身はそのデータを当然のように受け入れているようですが、その理由について十分な説明がなされていません。たとえば、このデータがアメリカの特定の地域、特定の社会階層の子どもたちに限って収集されたものであれば、日本にそのまま当てはめることは適切ではありません。また、双子研究という特有の枠組みによる制約があり、そこから一般の子どもたちの傾向にまで話を広げるのは、かなりの慎重さが求められるはずです。しかし、本書ではその点についての注意喚起はほとんど見られません。
さらに気になるのは、こうした研究に基づく説明が、人間の行動や性格、思考までもが「遺伝」と「環境」の数値で完全に分解可能だという錯覚を生んでしまうことです。安藤氏が言うように、共有環境には「片づけの習慣」「読み聞かせの有無」などが含まれるとしても、それらの影響が「せいぜい5%程度」とされてしまえば、多くの親や教育者は「努力しても仕方ない」と感じてしまうのではないでしょうか。
人間は、与えられた遺伝的素質や環境条件に従って生きているだけではありません。「もう少し頑張ってみよう」「この道を選びたい」「あの人と仲良くしたい」といった日々の選択と葛藤の中で、自らの生を切り拓いています。そこには、単なる遺伝でも、家庭環境でも、偶然でも説明しきれない「意思」と「選択」の領域が存在するはずです。
もし遺伝的影響が支配的だという前提が行きすぎれば、「教育や努力に意味はない」「どうせ遺伝で決まっている」という、極端な宿命論に陥ってしまいかねません。そうなれば、教育や育児、あるいは個人の希望や努力に対する信頼が損なわれてしまいます。それは本来、科学的知見が目指すべき方向ではないはずです。
本書に掲載された遺伝率の表や、安藤氏の説明には、興味深い知見が含まれているのは確かです。しかしそれをどう読み取り、どのように受け止めるかは、読者の批判的思考に委ねられていると言えるでしょう。だからこそ、数値の裏にある前提や限界について、より丁寧で慎重な説明が求められるのです。
知能については、年齢が高くなると遺伝の影響が高くなるのか?
知能に関して、教育の効果を相対化し、むしろ遺伝的要因のほうが重要であるかのように読める記述も、本書には登場します。たとえば、次のような一節です。
橘 行動遺伝学の知見でもう1つ驚いたのは、知能の遺伝率が年齢とともに上昇していくことです。これはどう解釈すればよいのでしょうか。
この問いに対し、安藤氏はこう答えます。
安藤 前提として、知能は確かに年齢によって遺伝率が上がるのですが、上がらない心理学形質のほうが一般的です。例えば、パーソナリティについても年齢に応じた調査結果がありますが、遺伝率は変わっていません。ただし、青年期から成人初期にかけての問題行動や社会的態度にも遺伝率の上昇は見出されています。
知能の遺伝率が年齢とともに上がるのは20歳ぐらいまでで、その先、遺伝率の上昇はフラットになっていきます。幼児期は親の育て方や家庭環境の影響が大きく、遺伝の影響が顕在化していませんが、成長するにつれて自分の遺伝的素養に合わせて環境を選択したり(遺伝と環境の能動的相関)、友人やまわりの大人がその子の性質や能力に合わせた関わりをするようになる(遺伝と環境の誘導的相関)機会が増えることで、本来の遺伝的な素因が全面に出てくるのではないかと思います。・・・学習経験は遺伝的素質をあぶりだしてくれるものなのです。
橘氏もこの見解に同意し、次のような実感を述べています。
橘 学校や塾の教師なら、小学校のときに一生懸命勉強して難関中学に入った子どもが、中学になると、たいして勉強が出来なかった子どもにどんどん追い越されていくことをよく知っています。後者は一般に「地頭(じあたま)がいい」といわれますが、成長とともに遺伝的な資質が現れてくると考えれば納得できます。
さらに安藤氏は、こうも述べています。
安藤 教育の現場にいる者にとっては、それは常識になっているのではないでしょうか。みんな表立って言わないだけで。
橘 「教育幻想」を壊したくないんですね(笑)
確かに、年齢とともに知能の個人差において遺伝の寄与が増していくという傾向は、いくつかの双子研究で報告されてきました。だが、それをもって「学習経験は遺伝をあぶり出すもの」と結論づけてしまうのは、あまりに一面的ではないでしょうか。
むしろ、年齢を重ねるにつれ人は家庭外の環境━━学校、友人関係、部活動、メディア、社会との関わりなど━━に多くさらされ、選択の自由も増していきます。そうした変化の中で、環境的な影響が強く働いていると考える方が自然ではないかと思われます。
また、「地頭」の話にしても、中学校に入ってから成績を伸ばし続ける生徒もいれば、思春期の影響や環境の変化などで学力が伸び悩む生徒もいます。その違いを「遺伝的資質」という一言で片づけるのは、むしろ教育の複雑性を見失わせるものではないでしょうか。
安藤氏は「教育の現場ではそれが常識」と言いますが、少なくとも私が接してきた現場では、そのような見方が支配的だったとは思えませんでした。むしろ、子どもは成長とともに変わっていくという前提のもと、教師たちは日々試行錯誤を繰り返しています。
このように、「知能の遺伝率が年齢とともに上がる」という調査結果には、解釈や前提に注意を要する点が多く、鵜呑みにすることはできません。行動遺伝学の示す数値は、あくまで統計的な処理を通じて得られた一つの見方に過ぎず、それを人間の発達全体にあてはめるのは極めて乱暴です。そうした見方を根拠に、教育の意義や可能性を矮小化するような主張には、より慎重な検討が必要でしょう。
だからこそ、こうした知見は参考程度にとどめ、私たち自身が何を信じ、どのように子どもと向き合うかを、自らの経験と知恵でもって考え続ける必要があるのだと思います。