今回は、『利己的な遺伝子』で知られるリチャード・ドーキンスによる話題作『神は妄想である』(早川書房)をご紹介します。これまでこのブログでは、宇宙や意識といったテーマを扱う書籍をいくつか取り上げてきましたが、本書の内容はそれらとも共鳴しており、自然に受け入れることができました。ただし、宗教観や信念にかかわる内容でもあるため、最終的な判断は読者一人ひとりに委ねられるべきでしょう。とはいえ、「宗教とは何か」を改めて考えるうえで、非常に示唆に富んだ一冊です。

第1章

第1章では、ドーキンスが「有神論者」「理神論者」「汎神論者」という3つの立場について、明快に用語整理をしています。これによって、読者としても頭の中がすっきりと整理されるように感じました。

まず、「有神論者(theist)は、そもそもこの宇宙を創造するという主要な仕事に加えて、自分の最初の創造物のその後の運命をいまだに監視し、影響を及ぼしているような超自然的知性の存在を信じている」とされています。つまり、有神論者は神が宇宙を創造しただけでなく、その後も人間社会に関与し続けていると考える立場です。

一方、「理神論者(deist)も超自然的な知性を信じているが、その活動は、そもそも最初に宇宙を支配する法則を設定することに限定される」とされています。理神論者は、神が宇宙の始まりに法則を定めただけで、それ以降は一切介入しないと考えます。そのため、祈りによって神が応えてくれるという考え方は、理神論には含まれません。

最後に、「汎神論者(pantheist)は、超自然的な神をまったく信じないか、神という単語を、超自然的なものではない〈自然〉、あるいは宇宙、あるいは宇宙の仕組みを支配する法則性の同義語として使う」とされています。ここでは、神という言葉が〈自然〉や〈宇宙の法則〉といった概念と同義であり、宗教的な神とは一線を画していることが示されています。

第2章

第2章では、ドーキンスが「不可知論」について詳しく論じています。まず彼は、次のように述べています。「いかなる形の証拠も見つからない場合、不可知論を採(と)るにはどこもまちがったところはない。それは妥当な立場である」。つまり、証拠がない段階で「わからない」とすること自体は、合理的な立場として尊重されるべきだというわけです。

しかしドーキンスは、神の存在に関する問いに対しても常に不可知論的であるべきなのかという点に踏み込み、その前提として、不可知論には性質の異なる2つの型があると指摘します。

1つ目は、実践上の一時的不可知論(TAP:Temporary Agnosticism in Practice)です。彼はこれを次のように定義します。「TAP、すなわち実践上の一時的不可知論は、こちらが正しいかあちらが正しいか、本当ははっきりした答があるのだが、いまのところそれに到達するべき証拠が欠如しているような(あるいは証拠が理解されていない、もしくはまだ証拠を解読するだけの時間がない、その他)状況では、正当な日和見主義である」。つまり、証拠が出そろっていない現時点では判断を保留するという、柔軟かつ合理的な態度だとされています。

もう1つは、原理的に永遠の不可知論(PAP:Permanent Agnosticism in Principle)です。「私はそれをPAP、すなわち原理的に永遠の不可知論と呼ぶ。・・・PAP式の不可知論は、どれだけ多くの証拠を集めようとも、証拠という概念そのものが適用できないために答えることができない問いにふさわしいものである」。その例として、哲学的によく取り上げられる「あなたが見ている赤が私の見ている赤と同じかどうか」という問題を挙げています。つまり、「あなたが見ている赤は私の緑かもしれないし、私が想像するどんな色ともまったくちがったものかもしれない」というふうに、原理的に比較や検証が不可能な問いがPAPの対象となります。

しかし、神の存在をこのPAPに分類しようとする一部の知識人に対して、ドーキンスははっきりと反論します。「これは早合点というものだ」と言い、「彼らは、神が存在するという仮説と神が存在しないという仮説が正しい確率はまったく同等であるという、めちゃくちゃな推論をしばしばおこなう」と批判します。そして彼は断言します。「神の存在についての不可知論は、断固として一時的不可知論、すなわちTAPカテゴリーに属するものなのだ。神が存在するかしないか、それは科学的な疑問である。いつの日か私たちはその答を知ることができるかもしれず、当面は、その蓋然性についてかなり強い主張をおこなうことができる」。

ここでドーキンスは、蓋然性(確率)には段階があるという視点を導入し、「神の存在に対する信念」も、0%から100%までのスペクトラムで捉えるべきだと述べます。以下は彼が提示する7段階の分類です。ドーキンス自身は「6」に該当するとしています。

  1. 強力な有神論者:神は100%の蓋然性で存在する。C.G.ユングの言葉によれば「私は信じているのではなく、知っているのだ」
  2. 実質的な有神論者:非常に高い蓋然性で神の存在を信じているが、100%ではない。「神がいるという想定のもとで日々暮らしている」
  3. 有神論寄りの不可知論者:「確信は乏しいが、神を信じたいと思う」
  4. 完全な不可知論者:「神の存在と非存在は、どちらもまったく同等にありうる」
  5. 無神論寄りの不可知論者:「神が存在するかどうかはわからないが、懐疑的である」
  6. 実質的な無神論者:「神は非常にありえないと考えており、存在しない前提で暮らしている」
  7. 強力な無神論者:「神がいないことを知っていると、ユングが “神を知っている” のと同じ確信で言える」

さらにドーキンスは、立証責任(burden of proof)の問題に触れます。その論点を鮮やかに示すのが、バートランド・ラッセルの有名な「天空のティーポット」の例です。

「正統派の人々の多くは、教条主義者が一般に認められているドグマを証明するよりも、懐疑論者がそれを反証するのが務めであるかのごとく語る。・・・もし私が、地球と火星のあいだに楕円軌道を描いて公転している陶磁器製のティーポットが存在するという説を唱え、そのティーポットはあまりにも小さいのでもっとも強力な望遠鏡をもってしても見ることができないと付け加えておきさえすれば、・・・その主張に誰も反証を加えることはできないだろう。・・・しかしもし、そのようなティーポットの存在が大昔の本に断言されており、日曜日ごとに神聖な真理として教えられ、学校で子供の心に吹きこまれていれば、その存在を信じることをためらうのは、異端の印となり、・・・精神分析医や宗教裁判官の注意を引く羽目におちいっただろう。」

この例が示すように、ある主張が反証できないからといって、それを「信じるべき理由」にはなりません。ドーキンスは、「論理的な立証責任を負うのが、それを批判する側である必要はない」と強調しています。

特にアブラハム系宗教の神に関しては、「この地球を共有する人々のうち、かなりの比率の人間がその存在を信じている」ために、「思い悩む必要が出てくる」と述べつつも、ティーポットの例が示すように、「多数の人が信じているからといって、立証責任が批判者にあることにはならない」と強く主張します。

「何についても、あるものや事柄が存在しないと決定的な形で証明するのは不可能なことを考えれば、神の非在を証明できなくてもいいわけだし、それは瑣末なことでもある。・・・蓋然性のスペクトラムに沿って考えるという原則から神だけを除外するべき理由はどこにもない。」

この章を通してドーキンスが訴えるのは、「証明できない=信じるに足る」という短絡を避け、科学的懐疑精神と確率に基づいた判断を保つことの重要性です。つまり、「わからない」と保留する姿勢は大切ですが、それを理由に判断停止に陥るのではなく、「それがどのくらいあり得ないか」を冷静に見積もる努力を私たちは続けるべきだ━━それが彼のメッセージなのです。

第3章

第3章では、神の存在を肯定しようとするさまざまな論証に対して、ドーキンスが厳密に検証を加えています。

まず取り上げられるのが、13世紀の神学者トマス・アクィナスによる「神の存在の5つの証明」です。しかしドーキンスは、それらについて手厳しく次のように述べています。「何も証明しておらず、空虚なものであることがたやすく暴露される」。その5つとは、「不動の動者」「原因なき原因」「宇宙論的論証」「度合からの論証」、そして「神学的な論証、あるいは設計(デザイン)をもちだす目的論的論証」です。

たとえば、「宇宙論的論証」は次のような形で展開されます。「いかなる物理的な事物も存在しなかった時があったはずにちがいない。しかし、物理的な事物が現にいま存在するのであるから、事物を存在に至らしめた非物理的な何かが存在したはずにちがいなく、それを私たちは神と呼ぶのである」。

これに対してドーキンスは、その論証が成立していないと次のように反論します。「退行というアイデアに依拠しており、それに終止符を打つために神を引っぱりだしてくる。いずれも、神そのものはその退行を免れるというまったく根拠のない仮定をしている。単に私たちが必要とするというだけの理由で、無限の退行を終止させる者(ターミネーター)を勝手気ままに呼び出し、それに名前をつけるという怪しげな贅沢をたとえ許容するとしても、その『終止者』に、全能、全知、善、設計(デザイン)能力はもとより、祈りに耳を傾け、罪を赦し、内面の思考を読みとるといった人間的な属性はいわずもがな、ふつう神に帰せられているような性質のいずれかを授けるべき理由はまったく存在しない」。

確かに、トマス・アクィナスの議論は一見もっともらしく感じられますが、ドーキンスの批判に耳を傾けると、神という存在を「問題の最終回答」として持ち出すことで、論理的な整合性が曖昧になっていることが見えてきます。難しい問題にぶつかったとき、「神」を登場させて無理やり説明を完結させてしまう━━そうした手法に対する痛烈な指摘です。

ドーキンスはまた、アクィナス以外の神の存在証明━━「存在論的論証およびその他の先験的論証」「美を根拠にした論証」「個人的な『体験』による論証」「聖書にもとづく論証」「宗教的科学者を持ち出す論証」などについても、ひとつひとつ検証し、強く批判しています。

中でも、私たちにとって比較的身近に感じられるのが、「個人的な体験に基づく論証」かもしれません。これについてドーキンスは次のように述べます。

「多くの人は、自分が神の━━あるいは天使や聖母の━━姿をその目で見たことがあるという理由で神を信じている。あるいは自分の頭のなかで神が語りかけたから、神を信じる。この個人的体験をもとにした論証は、神の存在を証明できると主張する人々にとって、もっとも説得力のある証明である。しかし、そうでない人にとって、そして心理学をよく知っている人間にとっては、もっとも説得力のないものである。」

このように、個人的体験の訴えは本人にとって強い確信をもたらすかもしれませんが、他者にとっては根拠として弱く、特に脳の働きを理解している人にとっては、むしろ慎重に受け止めるべきものであるとされています。

ドーキンスはここで、私たちの「脳」がどれほど強力なシミュレーション・ソフトを稼働させているかを強調します。

「人間の脳は、第1級のシミュレーション・ソフトウェアを走らせている。私たちの眼は、外部にあるものの忠実な写真や、時間とともに進行するものの正確な動きを提示してはいない。私たちの脳は、たえずアップデートされるモデルを構築しているのだ。・・・いわゆる『錯視』こそ、このことをあざやかに例証する現象であろう。・・・もっとも代表的な例はネッカー・キューブであるが、脳の受けとる感覚データが2つの互いに代替可能な現実モデルのどちらにも適合することから生じる。」

そしてこう続けます。

「こんなことを述べたのは、ひとえに脳のシミュレーション・ソフトウェアのおそるべき力を実証したいがためだ。これには究極の迫真性をもった『幻視(ヴィジョン)』や聖母の『出現(ヴィジテーション)』現象を引き起こす力がある。・・・この精巧なソフトウェアにとって、幽霊、天使、あるいは聖母マリアをシミュレートすることなど児戯(じぎ)に等しいだろう。」

さらに、聴覚についても同様だと述べています。

「私たちがある音を聞くとき…脳はたえずアップデートされつづける聴覚神経データをもとにして、音のモデルを構築するのである。」

つまり、私たちの脳は日常的に「現実のモデル」を構築しており、そのプロセスの中でときに幻視や幻聴といった現象が生じる可能性があるということです。それは「神」や「天使」、あるいは「亡くなった家族」を見るという体験にもつながりうるのです。

私自身、高齢の親戚が「何年も前に亡くなった母親がそばにいた」と話していたことがあります。普段の生活では何の問題もない方でしたが、そうした体験を聞いたとき、「人は本当に幻覚を見ることがあるのだな」と感じたものです。ドーキンスの論を通じて、その体験の背景にある脳のメカニズムに少し触れたような気がします。

第4章

第4章では、「神がほとんど存在しない理由」について、ドーキンスが多角的に論じています。まず取り上げられるのは、「還元不能な複雑さ」という概念です。これは「ある機能をもった構造物が、それを構成する部品のひとつでも欠けると全体として機能しない」場合、その構造は進化では説明できず、設計されたものだとする主張です。

創造論者の例として紹介されているのは、「ヴィーナスの花籠(はなかご)」として知られるカイロウドウケツ類のカイメンです。次のような記述が引用されています。

「ヴィーナスの花籠と呼ばれるこのようなケイ素の骨片でできた複雑なカイメンの骨格を眺めるとき、私たちの想像力は当惑させられる。いかにして、顕微鏡的な大きさの半独立性の細胞が共同して、数百万ものガラス状の骨片を分泌し、このような複雑で美しい格子を構築することができるのか? さっぱりわけがわからない。」

「しかし私たちが確かに知っていることが1つあります。偶然がそれを設計(デザイン)したのではなさそうだということです。」

この主張は、偶然か、あるいは神による設計かという二項対立に依拠していますが、ドーキンスはここで強く異を唱えます。彼によれば、「偶然」と「設計」の間には第3の道、すなわち「自然淘汰」が存在するのです。自然淘汰は「累積的な過程」であり、「ありえなさ」を分割して乗り越える手段になると述べています。

この点をわかりやすく説明するために、ドーキンスは「不可能の山」の比喩を用います。

「山の一方の側は切り立った崖になっていて登ることは不可能だが、反対側は頂上までなだらかな斜面になっている。山頂には、目や細菌の鞭毛(べんもう)モーターのような複雑な仕組みが置かれている。そのような複雑性が突発的に自分で組み立てられるという馬鹿げた考え方は、崖の麓から1回の跳躍で頂上まで飛び上がる、といった困難な行為に象徴される。それに対して進化は、山の裏側に回って、ゆるやかな斜面を頂上まで這い登るのである。」

創造論者はこの “跳躍” を可能にする何かを「スカイフック(空から吊るされた鉤)」と仮定しますが、ドーキンスは、それに代わる「クレーン(地道な進化の過程)」のほうがはるかに合理的だと論じます。

続いて議論は「人間原理」へと移ります。これは、宇宙や地球が人間の存在に都合よくできているという事実に注目したもので、以下のように説明されています。

「私たちはこの地球上に生きている。したがって、地球こそが、私たちを生みだし、支えることができるような種類の惑星であるにちがいない。・・・すなわち、惑星からあまりにも遠すぎるため水が凍ってしまう軌道と、あまりに近すぎて水が沸騰してしまう軌道のあいだに横たわる、適切な軌道が走る範囲から成る、帯状の領域(ゴルディロックス帯)がある。」

このような「生命に好都合な条件」が地球に揃っているのは、「神による設計の結果」だと考える説がありますが、ドーキンスはこれに対して「人間原理」的な見方を示します。つまり、数えきれないほどある惑星のうち、生命が生まれる条件を備えたごく一部に、私たちが偶然存在しているというだけなのです。

「たとえ、そのような惑星が非常に少数だったとしても、私たちは、必然的にその少数派のひとつにいるにちがいない。なぜなら、私たちはそのことについてここでこうして考えているのだから。」

この考え方は、生命の起源についても同様に適用されます。たとえ「10億に1の確率」でしか生命が誕生しなかったとしても、それが1回でも起きていれば、私たちはその「稀な成功例」の中にいるのです。

「設計(デザイン)説のアプローチは、手の込んだ奇跡をおこない、原始のスープを聖なる火で叩いて、DNA・・・にその容易ならざる務めを始めさせた神を仮定する。」

ドーキンスは、人間原理だけでは生物の「精巧さ」までは説明できないとも指摘します。ここでこそ、「ダーウィンのクレーン」が必要だというのです。

「人間原理は、生物の多種多様な細部を説明するのには無力である。・・・いかにも設計されたものであるかのごとく見えるという幻想(錯覚)がなぜ生じるかを説明するためには、ダーウィンの強力なクレーンが不可欠なのだ。」

議論はさらに宇宙レベルへと拡張されます。マーティン・リースの『宇宙を支配する6つの数』を引きながら、ドーキンスはこう語ります。

「これらの6つの定数は、それぞれがもしほんのわずかでも異なれば、宇宙はすっかり様変わりし、おそらくは生命の存在にとって不都合なものになってしまう。」

この奇跡的な「微調整」を、どう説明するか。ドーキンスは「多宇宙(メガヴァース)」という仮説を提示します。無数の宇宙が並存しているとすれば、私たちが観察できるこの宇宙がたまたま「生命に適していた」というだけなのです。

「多数の宇宙が存在し、『多宇宙』(あるいはレナード・サスキンドが好む呼び方をすれば『メガヴァース』)のなかで、泡の粒のように共存していると考えるのだ。私たちが観察できる宇宙のような、1つの宇宙の法則や定数は、細則である。1つの全体としての多宇宙は、膨大の数の、互いに代替可能な細則のセットをもっている。人間原理は、その細則が最終的な人類の進化に好都合で、したがってこの問題を考えるのに適した宇宙(おそらく少数派だと思われる)の1つに私たちがたまたま存在しなければならないことを説明するために発動される。」

そして、章の最後にあたる部分では、ドーキンス自身がその主張を6つの要点に要約しています。これは本章の要となる部分であり、ここに再掲しておきます。

第4章の要点(ドーキンスによるまとめ):

  1. 複雑で設計されたように見える宇宙が、どのようにして生まれたのかは、知性にとって最大の謎であった。
  2. 私たちはつい、複雑なものは設計されたのだと考えたくなるが、それは錯覚である。
  3. 設計者を仮定すると、「ではその設計者を誰が設計したのか」という問いに直面することになる。よりありえない存在を仮定するのは、答えになっていない。
  4. 最も強力な説明手段はダーウィンの自然淘汰である。これは、生物の複雑性がどのように蓄積されたかを段階的に説明できる。
  5. 物理学には、ダーウィン進化論に匹敵する「クレーン」はまだ見つかっていないが、多宇宙仮説がその可能性を秘めている。
  6. 現在手にしている説明(たとえ非力でも)は、設計者という自己矛盾に満ちた仮説よりは、遥かに優れている。

第5章

第5章では、「宗教の起源」についてドーキンスが論じています。彼はこう述べます。

「このところますます多くの生物学者が、宗教はほかの何かの副産物であるとみなすようになっているが、私もそのうちの1人である。」

つまり、宗教は本来的な目的をもった適応ではなく、進化の過程で偶然に生じた “副産物” であるという立場です。それでは、宗教は何の副産物なのか。ドーキンスは、自身の仮説を次のように語ります。

「私の持っている仮説とは、端的に言えば、子供に関するものである。人間はほかのどんな動物よりも、先行する世代の蓄積された経験によって生きのびる強い傾向をもっているのであり、その経験は、子供たちの保護と幸福のために、子供に伝えられる必要がある。」

たとえば、「赤い実(ベリー)は食べるな」「崖に近づくな」「ワニのいる川では泳ぐな」といった知識を、子どもが自分で学ぶにはあまりにも危険です。そのため、親や年長者が語り伝える教えを、子どもが無条件に信じることには、生存上の利点があります。

「『大人が言うことは疑問をもつことなく信じよ。親に従え。部族の長老に従え、とくに厳粛で威圧的な口調で言うときには』という経験則をもっている子供の脳に淘汰上の利益があるはずだ。」

ドーキンスは、自然淘汰が「疑いをもたず服従する」脳を生み出したと主張します。そうした従順さは、確かに幼い子どもにとって有益である一方で、重大な副作用も生み出します。

「『疑いをもたず服従する』という態度は、裏を返せば、『奴隷のように騙される』ことにつながる。そのような姿勢の逃れられない副産物として、その人物はウイルスに感染しやすくなる。」

ここでいう「ウイルス」とは、文字通りの病原体ではなく、誤った信念や非合理な教義、すなわち “情報のウイルス” です。ドーキンスによれば、親や長老の言葉を信じる必要があるがゆえに、子どもの脳は「正しい忠告」と「ナンセンスな主張」とを区別することができません。

「その子供が成長して自分の子をもったとき、当然のごとくその一切合切━━ナンセンスなものも意味のあるものも同じように━━を、同じような感染力のある厳粛なやり方で自分の子に伝える可能性は非常に高い。」

つまり、宗教的信念とは、淘汰上の有利さをもった性質(従順さ)の “副産物” として受け継がれていくものなのです。

この「騙されやすい子供説」以外にも、ドーキンスは多くの仮説に言及します。たとえば、ハインド、シャーマー、ボイヤー、アトラン、ブルーム、デネット、ケレマンといった研究者たちが提唱するさまざまな見解です。ただし、彼が強調するのは、どの仮説においても「宗教は偶然得られた副産物であり、本来の進化的機能の “誤作動” によって生じたものだ」という点で一致しているということです。

こうしたドーキンスの主張を読むと、確かに思い当たる節があるように感じられます。たいていの子どもは、成長の過程で親や大人の言葉を疑うことなく受け入れ、それを自分の価値観や行動規範として身につけていきます。そのなかには、生活の知恵や善悪の区別だけでなく、宗教的な信念や物語も含まれているのです。

そうして伝えられた信念は、やがて1つの体系となり、文化や社会のなかで「宗教」として位置づけられていきます。そして、社会ごとに異なる宗教が存在するのも、それぞれの地域で異なる「語り」が子どもに伝えられてきた結果なのだと考えると納得がいきます。

また、その社会に属する人々が、自分たちに伝えられた宗教と深く結びついていることも自然な現象として理解できます。つまり、宗教とは、合理性によって選ばれるものではなく、進化的に “信じやすい” 脳によって自然に受け入れられ、世代を超えて受け継がれてきた一種の文化的遺産だということです。

第6章~第10章

第6章では「道徳の起源━━なぜ私たちは善良なのか?」という問いが掘り下げられます。続く第7章では、「『よい』聖書と、変化し続ける『道徳の時代精神(ツァイトガイスト)』」が扱われ、宗教と倫理の関係性に焦点が当てられます。

第8章では、「宗教はどこが悪いのか?━━なぜ、これほどまでに敵意をかき立てるのか?」と題して、宗教がもたらす社会的・心理的影響を分析しています。

さらに第9章では、「子どもの虐待と、宗教からの逃走」として、宗教的信念が子どもに与える影響について深く考察されます。

そして最終の第10章では、「大いに必要とされる断絶(ギャップ)?」というテーマのもと、宗教との決別の必要性が論じられています。

以上のように、本書は章ごとに異なる視点から、神の存在、宗教の本質、そして人間の倫理や行動の背景を多角的に問い直していきます。ここではごく一部しか紹介できていませんが、興味をもたれた方は、ぜひ本書を手に取り、全体を通してじっくりと読んでみてください。ドーキンスの鋭い洞察と論理展開をたどることで、宗教や人間の在り方について深く考える貴重な時間となるはずです。