「利己的な遺伝子」で有名なリチャード・ドーキンスによる「神は妄想である」(早川書房)について紹介します。すでに他の著者による、宇宙、意識などについて書かれた本をこのブログで取り上げてきましたが、それらの内容とも合っていて、本書で書かれていることがらについて、自然と受け入れることができました。とはいえ、判断は各人によると思います。いずれにせよ、宗教を考えるうえで参考になりそうな本です。

第1章で、有神論者、理神論者、汎神論者の3つについて、ドーキンスは用語の整理をしています。このことによって、頭の整理ができました。すなわち、「有神論者(theist)は、そもそもこの宇宙を創造するという主要な仕事に加えて、自分の最初の創造物のその後の運命をいまだに監視し、影響を及ぼしているような超自然的知性の存在を信じている」としています。つまり、宇宙を創造するとともに、その後の宇宙をコントロールしている者がいることを信じているということです。次に、「理神論者(deist)も超自然的な知性を信じているが、その活動は、そもそも最初に宇宙を支配する法則を設定することに限定される」とあります。有神論者よりは限定的になって、最初に宇宙を創造して、その宇宙の法則を作っただけで、その後の人間の活動には干渉しないということを信じているということです。そのため、その神に祈っても何も応えてくれないということになります。最後に、「汎神論者(pantheist)は、超自然的な神をまったく信じないか、神という単語を、超自然的なものではない〈自然〉、あるいは宇宙、あるいは宇宙の仕組みを支配する法則性の同義語として使う」としています。

第2章でドーキンスは不可知論について述べています。まず、「いかなる形の証拠も見つからない場合、不可知論を採(と)るににはどこもまちがったところはない。それは妥当な立場である」としています。その上で、神に関する疑問について不可知論的でならなければならないのか、という疑問に対して、まず2種類の不可知論を区別することから論じています。

「TAP、すなわち実践上の一時的不可知論(Temporary Agnosticism in Practice)は、こちらが正しいかあちらが正しいか、本当ははっきりした答があるのだが、いまのところそれに到達するべき証拠が欠如しているような(あるいは証拠が理解されていない、もしくはまだ証拠を解読するだけの時間がない、その他)状況では、正当な日和見主義である」と言います。つまり、1つ目の不可知論としては、一時的不可知論として、まだ証拠が不十分な段階における正当な態度ということになります。

もう1つの不可知論は、永遠の不可知論を挙げています。「私はそれをPAP、すなわち原理的に永遠の不可知論(Permanent Agnosticism in Principle)と呼ぶ。・・・PAP式の不可知論は、どれだけ多くの証拠を集めようとも、証拠という概念そのものが適用できないために答えることができない問いにふさわしいものである。この場合、問題とされている問いは、私たちがいるのとは別の平面、あるいは別の次元にあって、証拠を見つけて解決するということ自体ができないものである」ということです。その例として、「あなたが見ている赤が私の見ている赤と同じかどうかという言い古された哲学的問い」がそれに当たるだろうとしています。つまり、「あなたが見ている赤は私の緑かもしれないし、私が想像するどんな色ともまったくちがったものかもしれない」ということです。

一部の科学者や知識人が、神の存在についてPAPカテゴリーに属するものだと確信していることに対して、ドーキンスは、「これは早合点というものだ」と否定しています。「彼らは、神が存在するという仮説と神が存在しないという仮説が正しい確率はまったく同等であるとう、めちゃくちゃな推論をしばしばおこなう」が、ドーキンスは、「神の存在についての不可知論は、断固として一時的不可知論、すなわちTAPカテゴリーに属するものなのだ。神が存在するかしないか、それは科学的な疑問である。いつの日か私たちはその答を知ることができるかもしれず、当面は、その蓋然性についてかなり強い主張をおこなうことができる」と力強く主張しています。

ドーキンスは、蓋然性(確率)に濃淡があることを無視してはならないとして、さらに、蓋然性にスペクトラムがあるという考えを取り上げて、神の存在についての人間の判断を、存在確率100%から0%までの7段階を設けることが出来るとしています。具体的には、次のようになります。ドーキンスは、自分自身をカテゴリー6にあてはめています。

1 強力な有神論者、神は100%の蓋然性で存在する。C・G・ユングの言葉によれば「私は信じているのではなく、知っているのだ」
2 非常に高い蓋然性だが、100%ではない。事実上の有神論者。「正確に知ることはできないが、私は神を強く信じており、神がそこにいるという想定のもとで日々暮らしている」
3 50%より高いが、非常に高くはない。厳密には不可知論者だが、有神論に傾いている。「非常に確信は乏(とぼ)しいのだが、私は神を信じたいと思う」
4 ちょうど50%。完全に公平な不可知論者。「神の存在と非存在はどちらもまったく同等にありうる」
5 50%以下だが、それほど低くはない。厳密には不可知論者だが、無神論に傾いている。「神が存在するかどうかはわからないが、私はどちらかといえば懐疑的である」
6 非常に低い蓋然性だが、ゼロではない。事実上の無神論者。「正確に知ることはできないが、神は非常にありえないことだと考えており、神が存在しないという想定のもとで日々を暮している」
7 強力な無神論者。「私は、ユングが神の存在を “知っている” のと同じほどの確信をもって、神がいないことを知っている」

さらに、立証責任という観点から、バートランド・ラッセルによる天空のティーポットのたとえ話を持ち出しています。詳細は次のとおりになります。

正統派の人々の多くは、教条主義者が一般に認められているドグマを証明するよりも、懐疑論者がそれを反証するのが務めであるかのごとく語る。もちろん、これはまちがいである。もし私が、地球と火星のあいだに楕円軌道を描いて公転している陶磁器製のティーポットが存在するという説を唱え、用心深く、そのティーポットはあまりにも小さいのでもっとも強力な望遠鏡をもってしても見ることができないと付け加えておきさえすれば、私の主張に誰も反証を加えることはできないだろう。しかしもし私がさらにつづけて、自分の主張は反証できないのだから、人間の理性がそれを疑うのは許されざる偏見であると言うならば、当然のことながら私はナンセンスなことを言っていると考えられてしかるべきである。しかし、もし、そのようなティーポットの存在が大昔の本に断言されており、日曜日ごとに神聖な真理として教えられ、学校で子供の心に吹きこまれていれば、その存在を信じることをためらうのは、異端の印となり、疑いをもつ人間は、文明の時代には精神分析医の、昔なら宗教裁判官の注意を引く羽目におちいっただろう。

このたとえ話において、私たちは、当然、「軌道を回るティーポットなど絶対に存在しない」と主張するでしょうが、しかし、そのティーポットが存在しないことを、確実に証明することはできません。このことからもわかるように、「論理的な立証責任を負うのがそれを批判する側になることはないということである」と主張しています。

ここでドーキンスは、アブラハム神の存在を批判する場合には、「思い悩む必要が出てくる」としています。「なぜなら、この地球を共有する人々のうち、かなりの比率の人間がその存在を信じているから」です。しかし、「ラッセルのティーポットの話が示しているのは、天空のティーポットを信じる人とは比べものにならない数の、世界中の人々が神の存在を信じているからと言って、論理的な立証責任を負うのがそれを批判する側になるということはないということである。何についても、あるものや事柄が存在しないと決定的な形で証明するのは不可能なことを考えれば、神の非在を証明できなくてもいいわけだし、それは瑣末なことでもある。問題は、神が反証可能(神が存在しない)かどうかではなく、神の存在がありえるかどうか(蓋然性)なのである。問題がまったく別物なのだ。ある種の反証不能な事柄は、他の反証不能な事柄よりもはるかにありえないと、分別によって判定される。蓋然性のスペクトラムに沿って考えるという原則から神だけを除外するべき理由はどこにもない。そして神を証明することも反証することもできないという理由だけで、神の存在する蓋然性が50%だと想定すべき理由もない」と主張しています。

すなわち、天空のティーポットの例のように、とても信じられないものについて、それが存在するのか存在しないのかを直接あるいは間接的に確かめる方法がない場合においても、どのくらいあり得ないことなのかと追究することはできるということでしょう。「その件については確かめようがないから、存在するのか存在しないのか、どちらとも言えません」という態度を、私たちはよくとりがちなのですが、そう簡単に判断をしてはならないというを意味していると思います。

第3章においては、神の存在を支持する論証について検証しています。まずトマス・アクィナスについて取り上げていますが、13世紀に彼によってなされた5つの「証明」は、「何も証明しておらず、空虚なものであることがたやすく暴露(ばくろ)される。」とドーキンスは書いています。その5つとは、「不動の動者」「原因なき原因」「宇宙論的論証」「度合からの論証」「神学的な論証、あるいは設計(デザイン)をもちだす目的論的論証」となります。

たとえば、宇宙論的論証については、「いかなる物理的な事物も存在しなかった時があったはずにちがいない。しかし、物理的な事物が現にいま存在するのであるから、事物を存在に至らしめた非物理的な何かが存在したはずにちがいなく、それを私たちは神と呼ぶのである」というものです。

これに対して、ドーキンスは次のように証明になっていないと言います。すなわち、この論証は、「退行というアイデアに依拠しており、それに終止符を打つために神を引っぱりだしてくる。いずれも、神そのものはその退行を免れるというまったく根拠のない仮定をしている。単に私たちが必要とするというだけの理由で、無限の退行を終止させる者(ターミネーター)を勝手気ままに呼び出し、それに名前をつけるという怪しげな贅沢をたとえ許容するとしても、その「終止者」に、全能、全知、善、設計(デザイン)能力はもとより、祈りに耳を傾け、罪を赦(ゆる)し、内面の思考を読みとるといった人間的な属性はいわずもがな、ふつう神に帰せられているような性質のいずれかを授けるべき理由はまったく存在しない」としています。

深く考えずに読んでいると、トマス・アクィナスが言っていることはもっとものような気がしてしまいますが、よくよく考えてみれば、ドーキンスが言うように、少し論理的飛躍があることに気づいてしまいます。困ったときに、全知全能の神を登場させてそこで問題を解決させてしまうという強引な手法といっていいのかもしれません。

トマス・アクィナス以外にも、「存在論的論証およびその他の先験的論証」「美を根拠にした論証」「個人的な『体験』をもとにした論証」「聖書にもとづく論証」「崇敬される宗教的科学者をもちだしての論証」などに対しても、強く批判しています。その中でも、「個人的な『体験』をもとにした論証」は馴染みがあるものなので、少し詳しく見ていきたいと思います。ドーキンスは、次のように言います。

多くの人は、自分が神の━━あるいは天使や聖母の━━姿をその目で見たことがあるという理由で神を信じている。あるいは自分の頭のなかで神が語りかけたから、神を信じる。この個人的体験をもとにした論証は、神の存在を証明できると主張する人々にとって、もっとも説得力のある証明である。しかし、そうでない人にとって、そして心理学をよく知っている人間にとっては、もっとも説得力のないものである。

どうして説得力がないものとなるのか、ここでは人間の脳の働きをもとに説明をしています。このあたりは、多くの科学者の意見が一致しているところだと思いますし、私も頷けるところです。

人間の脳は、第1級のシミュレーション・ソフトウェアを走らせている。私たちの眼は、外部にあるものの忠実な写真や、時間とともに進行するものの正確な動きを提示してはいない。私たちの脳は、たえずアップデートされるモデルを構築しているのだ。視神経を通じてたえまなく発せられる、暗号化されたパルスによってアップデートされはするが、構築されたものにはちがいない。いわゆる「錯視」こそ、このことをあざやかに例証する現象であろう。錯視のうち、もっとも代表的な例は、ネッカー・キューブもその1つであるが、脳の受けとる感覚データが2つの互いに代替可能な現実モデルのどちらにも適合することから生じるものである。2つの代替モデルのどちらを選択すべきかという根拠がないので、私たちは、1つの内的モデルからもう1つの内的モデルへの一連の切り替わりを体験する。私たちが見ている絵は、ほとんど文字通り急反転し、別のものになってしまうのだ。

こんなことを述べたのは、ひとえに脳のシミュレーション・ソフトウェアのおそるべき力を実証したいがためだ。これには究極の迫真性をもった「幻視(ヴィジョン)」や聖母の「出現(ヴィジテーション)」現象を引き起こす力がある。この精巧なソフトウェアにとって、幽霊、天使、あるいは聖母マリアをシミュレートすることなど児戯(じぎ)に等しいだろう。同じはたらきは、聴覚にもある。私たちがある音を聞くとき、それはバング&オルフセン製のハイファイステレオのように、聴覚神経を通じて脳まで忠実に伝達されるわけではない。視覚の場合と同じように、脳はたえずアップデートされつづける聴覚神経データをもとにして、音のモデルを構築するのである。

つまり、人間の脳は日常的にモデル構築を行なっていますが、ときに幻覚や幻聴によって、幽霊、天使、神そして聖母マリアを見たり、あるいは声を聞いたりした、という可能性があるということです。私の高齢の親戚の中にも、何年も前に亡くなったはずの母親が近くにいたといったことを話すときがあります。普段の生活上は特に問題はないのですが、こういった幻覚が起こるんだ、と思ったものです。

第4章においては、「ほとんど神が存在しない理由」について詳細に取り上げています。まず、「還元不能な複雑さ」についての説明がなされていますが、たとえば次のように、創造論者による本の1冊からヴィーナスの花籠(はなかご)(カイロウドウケツ類)を例に取り上げています。(なお、「還元不能な複雑さ」に関しては、「ある機能をもったひとまとまりのものが、それを構成する部品の1つでも取り去れば、全体が機能しなくなる場合、還元不能な複雑さをもつ」と説明しています。)

ヴィーナスの花籠(はなかご)(カイロウドウケツ類)と呼ばれるカイメンが見つかり、そのそばにサー・デイヴィッド・アッテンボローからの引用文がついている。ずばり、「ヴィーナスの花籠と呼ばれるこのようなケイ素の骨片でできた複雑なカイメンの骨格を眺めるとき、私たちの想像力は当惑させられる。いかにして、顕微鏡的な大きさの半独立性の細胞が共同して、数百万ものガラス状の骨片を分泌し、このような複雑で美しい格子を構築することができるのか? さっぱりわけがわからない」。この冊子の著者は間髪をおかず、彼ら自身のオチを付け加える。「しかし私たちが確かに知っていることが1つあります。偶然がそれを設計(デザイン)したのではなさそうだということです」

この本の流れでは、偶然ではなく神がそれを設計したという結論になるのですが、ドーキンスは、偶然の対立候補として設計(デザイン)とするのが間違いであり、設計(デザイン)ではなく自然淘汰とすべきだ、と主張しています。こうしたありえなさという問題に対する答えとして、自然淘汰が有効であって、偶然とか設計(デザイン)が不適格である理由として、「自然淘汰が累積的な過程であって、これが、ありえなさという問題を小さな断片にするから」だとしています。ドーキンスはこれを、「不可能の山に登る」場合のたとえで表現しています。

山の一方の側(がわ)は切り立った崖になっていて登ることは不可能だが、反対側は頂上までなだらかな斜面になっている。山頂には、目や細菌の鞭毛(べんもう)モーターのような複雑な仕組みがおかれている。そのような複雑性が突発的に自分で組み立てられるという馬鹿げた考え方は、崖の麓(ふもと)から1回の跳躍で頂上まで飛び上がる、といった困難な行為に象徴される。それに対して進化は、山の裏側に回って、ゆるやかな斜面を頂上まで這い登るのである。

ありえないものがつくられることに関して、創造論者側では、一気に、ありえなさをもつものが最終産物としてつくり上げられる(これをドーキンスは「スカイフック」と呼んでいます。)と考えているが、自然淘汰を支持する側では、長い時間をかけて徐々に進化し、ありえなさそうなものがつくられる(これをドーキンスは「クレーン」と呼んでいます。)ということです。確かに、ありえないものが存在していたとしたら、神とか宇宙人とかが登場して、全知全能の力、あるいは極めて高度な技術力をもって、それがつくられたというよりは、長い年月をかけて徐々にそのような形になっていったとしたほうが、説得力があると思われます。

次に「人間原理」についても言及しています。この本の中では、「1974年に英国の数学者、ブランドン・カーターによって名づけられたもので、物理学者のジョン・バーローとフランク・ティプラーがこのテーマを敷衍(ふえん)した本を書いている」と紹介しています。そして、最初に惑星レベルでの人間原理を取り上げて次のように説明しています。

私たちはこの地球上に生きている。したがって、地球こそが、私たちを生みだし、支えることができるような種類の惑星であるにちがいない。たとえ、そうした種類の惑星が異例で、たった1つしかないとしてさえ、そうなのだ。たとえば、私たちのような種類の生物は、液体の水がなければ生きのびることができない。・・・わが太陽のような典型的な恒星のまわりには、液体の水をもつ惑星のための、いわゆるゴルディロックス帯(たい)━━極端に熱すぎず寒すぎもせず、ちょうどいい温度の━━が存在する。すなわち、惑星からあまりにも遠すぎるため水が凍ってしまう軌道と、あまりに近すぎて水が沸騰してしまう軌道のあいだに横たわる、適切な軌道が走る範囲から成る、帯状の領域のことである。

地球が生命にとってとりわけ好都合な場所にあることについては、おもに2つの説明が提出されている。設計(デザイン)説によれば、神が世界をつくり、それをゴルディロックス帯に置き、あらゆる細部の条件を人間に好都合なようにわざわざ設計したのであるということになる。一方、人間原理的なアプローチはそれと非常にちがっており、かすかにダーウィン主義的な趣(おもむき)をもったものだ。宇宙にある惑星の大多数は、それぞれの恒星のゴルディロックス帯にはなく、生命には適していない。つまり、その大多数のどれ1つとして生命をもたない。しかし、生命にぴったりの条件をもつ惑星がどれだけわずかしかいない少数派であったとしても、私たちは、必然的にその少数派の1つにいるにちがいない。なぜなら、私たちはそのことについてここでこうして考えているのだから。

ドーキンスはこのように、人間原理は自然淘汰の場合と同じで、設計(デザイン)説と対立するものとしています。さらに生命の起源の話にも進んでいきます。次にように人間原理によって、かなり低めに見積もったとしても10億に1つの可能性のなかで1つでもそれが実現されていればいいという、統計的な話となっています。

ゴルディロックス軌道について見たのとまったく同じように、生命の起源がどれほどありえないことであったとしても、自分が現にここにいるがゆえに、それが地球で起こったことを私たちは知っている、と主張することは可能だ。温度の場合と同じように、ここでもまた、起こったことを説明する2つの仮説がある━━設計(デザイン)仮説と、科学的仮説、すなわち「人間原理的」仮説である。設計(デザイン)説のアプローチは、手の込んだ奇跡をおこない、原始のスープを聖なる火で叩いて、DNAあるいはそれに相当する何かにその容易ならざる務めを始めさせた神を仮定する。

またしても、ゴルディロックス帯の場合と同じく、設計(デザイン)仮説の代案となる人間原理的な仮説は統計的なものである。・・・私たちの銀河には、10億から300億のあいだの惑星が存在すると推定されており、全宇宙にはおよそ1000億の銀河が存在する。通常そうするように用心のためにゼロをいくつか減らして、10億 × 10億という、宇宙にありうる惑星の数としては控え目な推計をしておこう。さて、生命の起源、DNAに相当するものの自然発生的な誕生が、本当は、まったくたまげるほどにありえない出来事であったと仮定してみてほしい。つまり、10億の惑星のうちでたった1つでしか起こらないほどありえないものだと考えるのだ。

もし、生命が惑星上で自然発生的に誕生する掛け率が10億対1であるとすれば、それにもかかわらず、その唖然とするほどありえない出来事が、それでも10億もの惑星で起こっているだろうというのだ。・・・そして人間原理の美しいところは、人間のあらゆる直観に反して、「ここに生命が存在することについて、完璧で満足のいく説明を与えるためには、ある化学モデルが10億 × 10億のうちの1つの惑星で生命が生じていることを予測できさえすればいい」と教えてくれるところだ。

このあと生物の多様性の話へと進みますが、ドーキンスは、「人間原理は、生物の多種多様な細部を説明するのには無力である。地球上の生命の多様性、とりわけ、いかにも設計されたものであるかのごとく見えるという幻想(錯覚)がなぜ生じるかを説明するためには、ダーウィンの強力なクレーンが不可欠なのだ」と述べています。人間原理の役目はそこで終わって、地球の生物が極めて精巧に形作られていることを説明する段階ではダーウィンが登場するというわけです。

次に話は宇宙版の人間原理へと進みます。マーティン・リースの「宇宙を支配する6つの数」という本の中で出てくる、宇宙全体で通用すると思われる6つの基本定数について紹介しています。「これらの6つの定数は、それぞれがもしほんのわずかでも異なれば宇宙はすっかり様変わりし、おそらくは生命の存在にとって不都合なものになってしまうという意味で、精妙に調整されている」という、絶妙な数値の定数です。その一例として、いわゆる「強い力」(原子核の構成要素を結びつけている力)は、0.007であって、これが0.006や0.008であったら、宇宙には水素以外は存在しない、あるいは水素自体が存在しない、ということになり、生命維持に不可欠な水が存在しなくなってしまう、ということです。

どうやってそのような奇跡的な6つの定数になったのか、ということについては、次のように多数の宇宙が存在するなかで、私たちが観察できる宇宙にたまたま存在しているということで答えています。

つまり、多数の宇宙が存在し、「多宇宙」(あるいはレナード・サスキンドが好む呼び方をすれば「メガヴァース」)のなかで、泡の粒のように共存していると考えるのだ。私たちが観察できる宇宙のような、1つの宇宙の法則や定数は、細則である。1つの全体としての多宇宙は、膨大の数の、互いに代替可能な細則のセットをもっている。人間原理は、その細則が最終的な人類の進化に好都合で、したがってこの問題を考えるのに適した宇宙(おそらく少数派だと思われる)の1つに私たちがたまたま存在しなければならないことを説明するために発動される。

第4章の内容についてかなり詳しく見てきましたが、ここでドーキンスによってまとめたところを次に挙げておきます。ここは重要なところだとドーキンス本人が述べています。

1 何世紀にもわたって、人間の知性にとって最大の難事だったのが、この宇宙がいかにして、複雑で、一見設計(デザイン)されたとしか思えない、ありえない姿をもつに至ったかを説明することである。

2 設計(デザイン)されたかのような姿が生じたのは、実際に設計されたからだ、と考えたくなるのは自然なことである。時計のような人工の工作物の場合、設計者(デザイナー)は実際に知的な技術者である。同じ論理を眼や翼、クモや人間に当てはめるというのは心をそそられる。

3 しかし、そう考えるのは誤りである。なぜなら、設計者(デザイナー)仮説はただちに、その設計者を誰が設計したのかというさらに大きな問題を提起するからである。私たちが手がけようとする問題のすべては、統計学的なありえなさをいかに説明するかという難題である。よりありえない何かを仮定するというのは、明らかに答になっていない。私たちに必要なのは「スカイフック」ではなく「クレーン」なのである。なぜなら、クレーンだけが、単純なものから、漸進的かつ説得力のある形で、ほかの手段では到達しえない複雑さに向かって上昇していくという作業をおこなうことができるのである。

4 これまでに発見されているなかで、もっとも巧妙で強力なクレーンは、自然淘汰によるダーウィン流の進化である。ダーウィンおよび彼の後継者たちは、目を見張るような統計学的ありえなさと、設計されたようにしか見えない生物が、単純な発端からいかにして、ゆっくりと段階を経ながら進化したかを示してきた。生物に見られる設計(デザイン)という錯覚はまさに錯覚でしかないのだと、言っても差し支えないだろう。

5 物理学では、これに匹敵するクレーンはまだ見つかっていない。ある種の多宇宙理論は、原理的には、生物学においてダーウィン主義が果たしているのと同じ説明的な役割を、物理学において果たすことができるかもしれない。この種の説明は、一見したところでは、生物学版のダーウィン主義ほど満足すべきものではない。なぜなら、それは純然たる幸運が果たす役割にかなりの重きを置いているからである。しかし人間原理のおかげで、私たちの限られた直観がなじめるものよりもはるかに大きな幸運を仮定していてもかまわないことがわかった。

6 物理学においてもっとも有効な、生物学におけるダーウィン主義と同じほど強力なクレーンが生まれてくる望みを捨てるべきではない。しかし、たとえ、生物学版クレーンに匹敵するほど強力で満足すべきクレーンが存在しなくとも、現時点で手にしている比較的非力なクレーンが人間原理に助けられるなら、知的な設計者(インテリジェント・デザイナー)という自己矛盾したスカイフック仮説に比べれば、明らかにすぐれている。

第5章においては、宗教の起源について書かれています。ドーキンスは、「このところますます多くの生物学者が、宗教はほかの何かの副産物であるとみなすようになっているが、私もそのうちの1人である」と述べています。もし宗教が他の何かの副産物であるとすれば、それは何かという問いに対して、次のように解説しています。

私の持っている仮説とは、端的に言えば、子供に関するものである。人間はほかのどんな動物よりも、先行する世代の蓄積された経験によって生きのびる強い傾向をもっているのであり、その経験は、子供たちの保護と幸福のために、子供に伝えられる必要がある。理屈の上では、子供は自らの実体験によって、あまり崖っぷち近くまで行かないよう、食べたことがない赤い実(ベリー)は食べないように、ワニの潜む川では泳がないように学ぶことができると言えるかもしれない。しかし、どんなに控え目に言っても、「大人が言うことは、疑問をもつことなく信じよ。親に従え。部族の長老に従え、とくに厳粛で威圧的な口調で言うときには」という経験則をもっている子供の脳に淘汰上の利益があるはずだ。年上の人間の言うことは疑問をもたずに信じよというのは、子供にとって一般的に有益なルールである。しかし、・・・うまくいかないこともある。

自然淘汰は、親や部族の長老の言うことは何であれ信じるという傾向をもつ脳をつくりあげる。そのような、「疑いをもたず服従する」という行動には、生存上の価値がある。・・・しかし、「疑いをもたず服従する」という態度は、裏を返せば、「奴隷のように騙される」ことにつながる。そのような姿勢の逃れられない副産物として、その人物はウイルスに感染しやすくなる。ダーウィン主義的な生き残りに関するいくつかのすばらしい理由があるゆえに、子供の脳は親と、親が信じよと教える年長者を信じる必要がある。そこから自動的に導かれる結果として、信じやすい人間は、正しい忠告と悪い忠告を区別する方法をもたないということになる。・・・そして、その子供が成長して自分の子をもったとき、当然のごとくその一切合切(いっさいがっさい)━━ナンセンスなものも意味のあるものも同じように━━を、同じような感染力のある厳粛なやり方で自分の子に伝える可能性は非常に高い。

ドーキンスは、「宗教が副産物だとする説明はこれ以外にも、ハインド、シャーマー、ボイヤー、アトラン、ブルーム、デネット、ケレマンその他から提案されている」と、「騙されやすい子供説」以外のことにも触れています。ただ、宗教が偶然得られた副産物、すなわち何か有用なものが誤作動した結果であるということには変わりがないとのことです。

ドーキンスによる、子供に代々伝えられていくという説は、言われてみればそのようなことがある気がします。幼い頃から親の言うことをまず聞いて成長していくということは、一般的なことでしょう。その中で、大人が信念をもって子供に様々な知恵、ルール、善悪、価値観などを教えていき、なんの疑いももたずに子供は受けとっていきます。そうして子供に代々受け継がれ、1つの物語としてまとまったものがその社会における宗教ということなのでしょう。そのため、社会ごとに様々な宗教があり、世界観、価値観、行動様式などが異なったものとなるのは理解できます。そして、その社会に属する人々は、そこで語り継がれてきた、あるいは本としてまとめらた宗教と強く結びつけられるというのは自然のことに思えてきます。

第6章では「道徳の起源━━なぜ私たちは善良なのか?」、第7章では「『よい』聖書と移り変わる『道徳に関する時代精神(ツァイトガイスト』」、第8章では「宗教はどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心(てきがいしん)を燃やすのか?」、第9章では「子供の虐待と、宗教からの逃走」、第10章では「大いに必要とされる断絶(ギャップ)?」と続いていきます。ここでは一部しか紹介できていませんので、興味を持った方は、実際にこの本を購入するなどして、じっくり全体を読んでみてください。