シーナ・アイエンガーの「選択の科学」(文藝春秋)について、紹介します。「選択肢が多ければ多いほどよいのか?」、「自分で選択する自由があることは望ましいことがだが、時にはつらいこともある」といったことについて、考えされられます。そのように自分で選択することがつらいので、誰かに決めてもらいたい、運命に従う、神様を信じる、といったことにつながるかもしれないと思いました。

シーナ・アイエンガーがスダンフォードの大学院生の時代に行なった選択に関する研究で、有名な「ジャム研究」というものがあります。ドレーガーズというお店に自分の試食コーナーを設置させてもらい、ウィルキンソン&サンズの作っているジャムのうち、24種類を取り揃えた場合と、6種類のジャムだけにした場合とで、その違いを比較しました。その結果は、24種類のときは、買い物客の60%が試食に立ち寄り、6種類のときは40%が訪れたということでした。

試食コーナーに立ち寄った客全員に、ウィルキンソン&サンズのどのジャムにも使える、1週間有効の1ドル引きクーポンを渡したのですが、ジャムを購入したほとんどの人は、受け取ったその日のうちにクーポンを利用したそうです。試食コーナーではジャムを販売しなかったので、お客はジャム売場に行き、そこでジャムを選んで、レジで支払うことになっていました。そのクーポンを集計することによって、24種類を取り揃えたところで試食したか、6種類に絞ったところで試食したかが分かるので、どちらの場合がより多く購入したかが分かるようになっていました。その結果は、驚くべき事実が判明しました。なんと、6種類に絞ったほうが、実際にジャムを購入した数が圧倒的に多かったということです。本書では、次のように説明しています。

クーポンを集計した結果、驚くべき事実が判明した(バーコードから、購入客がどちらを試食したかがわかるようになっていた)。6種類の試食に立ち寄った客のうち、ジャムを購入したのは30%だったが、24種類の試食の場合、実際にジャムを購入したのは、試食客のわずか3%だったのだ。大きな品揃えの方が、買い物客の注目を集めた。それなのに、実際にジャムを購入した客の人数は、小さな品揃えの方が6倍以上も多かったのである。

一般的に選択が多いと豊かな気持ちになり、楽しい気分にもなります。しかし実際に1つを選ぼうとすると、どうやって選んでいいのか混乱してしまいます。ジャムの場合も、24種類すべてを試食してそこから決めるという人はいないでしょう。専門家や信頼できる人から「おススメのものはこれです」と言って、たとえば2つ、3つ、あるいは5つぐらい提案してもらい、そこから選ぶということになればあまりストレスを感じずにできそうです。膨大な選択肢があると、思考停止になりそうな気がします。実際には、多くの商店では経験則から、ある程度の種類に絞って、商品を紹介しているように思えます。

選択することは楽しいような気がしますが、そうではなく苦しく感じるときもあるという話も気になりました。本書の中で、重病の子どもの延命治療中止の判断を親が行なうときに、自分で決定することの痛みについても紹介しています。具体的には次の3つのシナリオで選択をする人がどのようなストレスを感じるかどうかを比較しています。

シナリオ1は、次のとおりです。このシナリオでは、医師はほとんど情報を開示せずに、医師自らが最終判断を下しています。以前は、こようようなことがあたりまえのやり方だった、ということです。

あなたには、ジュリーという、早産で生まれた女の赤ちゃんがいる。ジュリーは妊娠27週めに、体重わずか900グラムで生まれ、脳内出血を起こして危篤状態にある。現在、著名な大学病院の新生児集中治療室(NICU)で治療を受けており、人工呼吸器で生命を維持している。

あなたは医師に、このまま危篤状態が続けば、ジュリーは深刻な神経障害を残し、命を取り留めたとしても生涯寝たきりで、喋ることも歩くことも、意思疎通もできないだろうと宣告された。医師団は熟慮の上、延命治療を中止すること、つまり人工呼吸器を取り外して死なせてあげることが、ジュリーにとって最良の選択だと判断した。

シナリオ2は、次のとおりです。

あなたには、ジュリーという、早産で生まれた女の赤ちゃんがいる。ジュリーは妊娠27週めに、体重わずか900グラムで生まれ、脳内出血を起こして危篤状態にある。現在、著名な大学病院の新生児集中治療室(NICU)で治療を受けており、人工呼吸器で生命を維持している。治療を始めてから3週間が経過したが、ジュリーの状態に改善は見られない。

あなたは医師から、この事態を踏まえて考えられる2つの方針について説明を受ける。延命治療を続けるか、人工呼吸器を取り外して治療を中止するかだ。医師は、それぞれの方針がもたらす結果を次のように説明した。治療を中止すれば、ジュリーは亡くなる。治療を続けた場合、ジュリーが死亡する確率は40%で、生存の確率は60%だが、命を取り留めたとしても生涯寝たきりで、喋ることも歩くことも、意思疎通もできない。医師団はジュリーの深刻な状態を熟慮した上で、延命治療を中止して死なせてあげることが、ジュリーにとって最良の選択だと判断した。

このシナリオでは、延命治療を中止する決定を下したのが医師団で、ジュリーが亡くなったということに、変わりはありません。しかし、医師団から、考えられる2つの方針と、それぞれの方針がもたらす結果に関する説明を受けたことで、納得感が高まり、判断に伴う精神的ストレスが少し軽減されたのではないかと思われます。

3つ目のシナリオは、次のとおりです。

今回も、あなたには、ジュリーという、早産で生まれた女の赤ちゃんがいる。ジュリーは妊娠27週めに、体重わずか900グラムで生まれ、脳内出血を起こして危篤状態にある。現在、著名な大学病院の新生児集中治療室(NICU)で治療を受けており、人工呼吸器で生命を維持している。治療を始めてから3週間が経過したが、ジュリーの状態に改善は見られない。

今回医師たちは、あなたに選択を委ねる。延命治療を続けるか、人工呼吸器を取り外して治療を中止するかだ。医師は、それぞれの方針がもたらす結果を次のように説明した。治療を中止すれば、ジュリーは亡くなる。治療を続けた場合、ジュリーが死亡する確率は40%で、生存の確率は60%だが、命を取り留めたとしても生涯寝たきりで、喋ることも歩くことも、意思疎通もできない。

今回は、選択はあなたの手に委ねられるというシナリオです。医師はあなたに必要な情報を提示し、その上意思決定までも任せるということになりました。選択を自分で行なうことから、これが一番望ましい方法ではないかと思いそうですが、実は、「延命治療を続けるか、中止するかの選択を委ねられた人たちのほとんどが、幸せでも、健やかでもなく、そのことを感謝してもいない。現実にこの決定を下す親たちは、医師に重大な決定を任せる親たちよりも、苦しんでいるのだ」ということです。

シーナ・アイエンガーは、幼な子を亡くすという辛い試練を経験したアメリカとフランスの親たちを対象に、調査を行なっています。どのケースでも、重病の子どもが延命治療の中止後に亡くなっていました。アメリカとフランスの違いは、「アメリカでは親が治療中止の決定を下さなければならないのに対し、フランスでは親がはっきりと異議を申し立てない限り、医師が決定を下すのが通例となっている」という点でした。そして親たちの受けとめも違っていました。次のとおりです。

フランスの親たちの多くが、「こうするしかなかった」という確信を口にし、そのせいかアメリカの親たちほど、「こうだったかもしれない」、「こうすべきだったかもしれない」という思いにとらわれずに、自分の経験について語ることができた。

彼女をはじめフランスの親たちは、だれ一人として自分や医師を責めなかった。治療中止の決定にもっと深く関わりたかったと言った人はいたが、それでも決断を下す立場に立つのは、あまりにも苦しくきついことだったろうと言った。娘のアリスを亡くしたピエールは、こう説明してくれた。「(医師たちが)決定を下し、それから親と話し合うんだ。ぼくたちは親だから、もしそんな決定に関与しろと言われても、無理だと思う。機械を止めろなんて言えるかどうか。今のやり方でさえ辛いのに、これ以上余計なストレスを抱え込みたくない」

一方で、アメリカの親たちは、その「余計なストレス」で、苦しんでいるようでした。

エリオットの母親ブリジットは、看護師や医師に、決断をせかされたと言った。「今も同じことを考えながら、ただ歩き回っている。『あの時ああしていたら・・・』と堂々めぐりで考え続けているの」。彼女は治療方針の決定に、もっと深く関与すべきだったと考えていたが、自分が「プラグを引き抜いた」張本人だったことに、深く傷ついていた。「あの人たちは、わたしにわざと拷問を与えていたんだわ。どうしてあんなことを、わたしにやらせたの? あの決定を、この手で下したという罪悪感を、一生抱えて生きていくことになった」。息子のチャーリーを亡くしたシャロンは、同じような感情をこう説明した。「まるで処刑に手を染めたみたいだった。あんなことをするんじゃなかった」

著者は、この調査において次のように締めくくっています。

“ジュリー・ジレンマ” が教えてくれたように、ジュリーを生命維持装置から外すことを、医師が医学的に望ましい選択肢として提示したとき、選択者は、医師が意向を表明せず、ただ選択肢を提示したときほど、自分の決断を苦しめなれなかった。わたしたちは、難しい決断の負担を軽減しようとして、権限や専門知識を持つ人たちに頼ることが多い。苦境に立たされたとき、自分が正しい方向に進んでいると太鼓判を押してくれる人がいれば、たとえ現実の結果が変わらなくても、苦しみは大いに軽くなる。

どちらかを選ばなくてはならない、しかもその判断は結構重たい、という厳しい判断を迫られることは様々な場面であると思います。医療関係では、重大な決断ということも多いと思います。その選択をした結果、あまりよくない状況になったとしても、判断した責任はすべて自分であるとなると、これはなかなか耐えられないかもしれなせん。生命維持装置を外すとなると、生死に直結しますから、自分がその子を殺したのだという意識はずっと引きずる可能性があります。

そのとき、医者が最善の方法を提案してくれたので、それを尊重して、最終的に自分が判断したとなるということだと、医者の判断ということが間に入るので、苦しい気持ちは少し和らぐのでしょう。口に出して言わなくても、心の中で「医者がそのように言っていたから」、と医者のせいにすることもできるかもしれません。

このような状況は医療の場だけでなく、たとえば、進学する大学を選択する、自分が専攻する学部を選択する、大学を出て就職先を選択する、結婚相手を選択する、といった様々な場面でも重大な選択を迫られることがあると思います。そのとき、だれかの言うままにそれを選択するのではなく、自分で責任を持って選択することは基本となることでしょう。しかし、その判断をするのに、誰かに背中を押してもらったといういことで、気持ちが楽になるということは誰にでもあるのではないでしょうか。これは責任という重荷を少し背負ってもらっていることと似ているのかもしれません。

このようなことから、重大な判断をするときに、信頼できる誰かに頼る、できれば、専門的知識と経験が豊富な人に頼る、ということはとてもいい方法だと言えましょう。もちろん、頼り過ぎてはいけないとは思います。ですが、「自分は強いし、人に頼るのは嫌いなので、なんでも自分で情報を集めてしっかりと自分で判断する。そうでないと気がすまない。」と、そこまで自分を追い詰めなくてもいいような気がします。

その他、選択という問題について、著者自らの経験や、選択に関する多くの実験結果などをふまえて、ていねいに考察している充実した内容の本でした。ここでは一部しか紹介できていませんので、興味を持った方は、実際にこの本を購入するなどして、じっくり全体を読んでみてください。