
今回は、コロンビア大学ビジネススクール教授、シーナ・アイエンガーによる著書『選択の科学』(文藝春秋)をご紹介します。この本は、「選択肢が多ければ多いほど良いのか?」「自分で選択する自由は、本当に幸せをもたらすのか?」といった、私たちが日常的に直面している“選ぶ”という行為について深く考えさせてくれます。
選択は自由の象徴とも言われますが、時にそれは重荷にもなります。選ぶことの負担が大きすぎて、誰かに決めてほしい、運命に従いたい、神に委ねたいと思うことすらあるかもしれません。本書は、そうした「選択」の光と影を、豊富な実験や実例、そして著者自身の経験を交えて丁寧に論じています。
有名な「ジャム実験」━━選択肢が多すぎると決められない
本書の中でも有名な研究が、いわゆる「ジャム実験」です。アイエンガーがスタンフォード大学の大学院生だったころ、次のようなフィールド実験を行いました。
舞台は、カリフォルニアの高級スーパー「ドレーガーズ」。試食コーナーでウィルキンソン&サンズのジャムを提供し、「24種類」のジャムを並べたときと、「6種類」に絞ったときで、消費者の行動がどう変わるかを比較しました。
結果は次の通りです。
「クーポンを集計した結果、驚くべき事実が判明した(バーコードから、購入客がどちらを試食したかがわかるようになっていた)。6種類の試食に立ち寄った客のうち、ジャムを購入したのは30%だったが、24種類の試食の場合、実際にジャムを購入したのは、試食客のわずか3%だったのだ。大きな品揃えの方が、買い物客の注目を集めた。それなのに、実際にジャムを購入した客の人数は、小さな品揃えの方が6倍以上も多かったのである。」
この結果は、選択肢が増えると一見魅力的に見えるが、実際には「選べなくなってしまう」という心理的負担が生じることを示しています。あまりにも多くの選択肢にさらされると、人は混乱し、結局何も選ばないまま立ち去ってしまうのです。
ジャムに限らず、レストラン選びでも似たような経験はないでしょうか。多数の候補から選ぶより、「この3軒がおすすめです」と誰かが絞ってくれたほうが、ずっと気が楽です。実際、多くの店は経験則に基づいて、選択肢をある程度絞って商品を提示しています。過剰な選択肢は、むしろ私たちを疲弊させているのです。
「選択する自由」は本当に幸福をもたらすか━━ジュリー・ジレンマ
選択が「楽しみ」ではなく「苦しみ」になる極限の状況についても、本書では詳しく論じられています。特に印象深いのは、新生児集中治療室(NICU)での延命治療に関するシナリオを用いた心理実験です。
ここでは、重病の未熟児ジュリーをめぐる3つの場面が示されます。いずれもジュリーの状態は深刻で、延命治療を続けるか、中止して最期を迎えさせるかの選択が迫られます。
シナリオ1:医師が判断を下す
「あなたは医師に、このまま危篤状態が続けば、ジュリーは深刻な神経障害を残し、命を取り留めたとしても生涯寝たきりで、喋ることも歩くことも、意思疎通もできないだろうと宣告された。医師団は熟慮の上、延命治療を中止すること、つまり人工呼吸器を取り外して死なせてあげることが、ジュリーにとって最良の選択だと判断した。」
このシナリオでは、親にはほとんど情報が与えられず、医師が決定を下します。かつてはこのような “専門家主導” の意思決定が一般的でした。
シナリオ2:情報を受けたうえで医師が判断
「あなたは医師から、この事態を踏まえて考えられる2つの方針について説明を受ける。延命治療を続けるか、人工呼吸器を取り外して治療を中止するかだ。医師は、それぞれの方針がもたらす結果を次のように説明した。治療を中止すれば、ジュリーは亡くなる。治療を続けた場合、ジュリーが死亡する確率は40%で、生存の確率は60%だが、命を取り留めたとしても生涯寝たきりで、喋ることも歩くことも、意思疎通もできない。医師団はジュリーの深刻な状態を熟慮した上で、延命治療を中止して死なせてあげることが、ジュリーにとって最良の選択だと判断した。」
ここでは、選択肢とその結果が丁寧に説明されたうえで、最終判断は医師が下します。親にとっては納得感があり、精神的負担が軽減されやすいパターンです。
シナリオ3:選択が親に委ねられる
「今回医師たちは、あなたに選択を委ねる。延命治療を続けるか、人工呼吸器を取り外して治療を中止するかだ。医師は、それぞれの方針がもたらす結果を次のように説明した。治療を中止すれば、ジュリーは亡くなる。治療を続けた場合、ジュリーが死亡する確率は40%で、生存の確率は60%だが、命を取り留めたとしても生涯寝たきりで、喋ることも歩くことも、意思疎通もできない。」
一見すると、もっとも “自由” な選択に思えますが、実はこのパターンが最も親に精神的ダメージを与える結果となりました。
「自由な選択」がもたらす苦しみ
アイエンガーは、アメリカとフランスの親を対象に調査を行いました。アメリカでは親が治療中止の決定を下さなければならないのに対し、フランスでは親がはっきりと異議を申し立てない限り、医師が決定を下すのが通例となっています。
重病の子どもが亡くなったという現実は同じでも、その「決定のしかた」が遺された家族の心に大きな違いを生んだのです。
フランスの場合は、次のように語られています。
「フランスの親たちの多くが、『こうするしかなかった』という確信を口にし、そのせいかアメリカの親たちほど、『こうだったかもしれない』、『こうすべきだったかもしれない』という思いにとらわれずに、自分の経験について語ることができた。」
「フランスの母親ノーラは、こう話した。『わたしたちはノアを失ったけれど、息子はわたしたちにいろんなことを教えてくれた。』・・・彼女をはじめフランスの親たちは、だれ一人として自分や医師を責めなかった。」
一方でアメリカの場合は、次のようなことでした。
「エリオットの母親ブリジットは、・・・自分が『プラグを引き抜いた』張本人だったことに、深く傷ついていた。『あの人たちは、わたしにわざと拷問を与えていたんだわ。どうしてあんなことを、わたしにやらせたの? あの決定を、この手で下したという罪悪感を、一生抱えて生きていくことになった』。」
「息子のチャーリーを亡くしたシャロンは、同じような感情をこう説明した。『まるで処刑に手を染めたみたいだった。あんなことをするんじゃなかった』」
このように、最終的な決断を “自分の責任” として引き受けなければならないとき、人は強い後悔や罪悪感にさいなまれます。
著者はこのようにまとめています。
「苦境に立たされたとき、自分が正しい方向に進んでいると太鼓判を押してくれる人がいれば、たとえ現実の結果が変わらなくても、苦しみは大いに軽くなる。」
選ぶ自由と、選ばない自由
選択の自由は、現代において大きな価値とされがちです。しかし、選ぶことには「責任」という重荷がつきまといます。特に、重大な決断を下すとき━━進学、就職、結婚、医療━━などでは、「すべてを自分で決めなければ」と思いつめてしまうことで、かえって選べなくなることもあります。
そんなとき、信頼できる専門家や家族、友人に背中を押してもらうことで、私たちは安心して決断できるようになります。それは、決して責任逃れではなく、「自分一人で背負わない選択」という健全なあり方なのだと思います。
おわりに
『選択の科学』は、選択肢の多さが私たちにもたらす心理的影響から、日常のささいな選択、そして命にかかわる重大な決断まで、選択の本質に迫った一冊です。著者自身の経験や多くの心理実験を通じて、選ぶとはどういうことなのかを問い直す、非常に充実した内容でした。
ここでご紹介できたのは、本書のごく一部です。興味を持たれた方は、ぜひ本書を手に取って、じっくりと読んでみてください。選択についての見方が、きっと変わるはずです。


