
フランス・パリにある大学都市(シテ・ユニヴェルシテール)内には、「レジデンス」と呼ばれる研究者向けの一軒家があります。私はかつて、そこに約半年間滞在し、日本人やスペイン人、イギリス人、ロシア人など、多国籍の研究者たちと共同生活を送りました。今思い返しても、あの日々は忘れがたい体験となっています。
建物の1階には、日本人、スペイン人、イギリス人が住んでおり、キッチンやダイニングスペースが共用でした。2階には私とロシア人研究者が住んでいました。自然と1階の共有スペースに人が集まり、キッチンで料理をしながらフランス語で会話を交わす━━そんな日常が、文化を越えた交流を育んでいました。
特に印象深いのは、陽気なスペイン人の女性研究者。スペイン語とフランス語の親近性もあってか、彼女のフランス語はとても流暢でした。ときどき自家製のスパニッシュオムレツを振る舞ってくれ、皆で囲んで楽しく食事をすることもありました。
しかし、国籍も文化も異なる者同士の生活は、楽しいばかりではありません。あるとき、私は建物内にある電話から友人に通話をしていたのですが、それが少し長くなると、彼女が「テレフォン、テレフォン!」と繰り返し騒ぐのです。うるさいから電話を控えてほしいということなのか、それとも声が気になるのか、理由ははっきりしません。ただ、私が電話をしていると、決まってその声が飛んできました。
「そんなに言わなくても・・・」と少し不満が募り、ある日、思い切って話し合いを試みることにしました。落ち着いたトーンで、「少し話したいことがあるのですが」と、フランス語で伝えようとしたそのとき、1階に住む日本人研究者・末松壽(ひさし)先生(当時山口大学、のちに九州大学教授)がそばにおられ、「通訳しましょう」と申し出てくださいました。
当時の私には、フランス語で本格的に “ケンカ” をする語学力はありませんでした。末松先生を通じて、私は彼女にこう伝えました。
「私が電話をするたびに、“テレフォン、テレフォン” と騒ぐのはやめてくれませんか。正直、嫌がらせのように感じられます。」
すると彼女は、「私が言っていたのは、あなたじゃない」と答えました。実は、同じ2階に住むロシア人研究者の電話に対して言っていたそうです。思い込みによる誤解だったのです。
その後は関係も元通りになり、末松先生からは「お互い、仲良くしましょうね」と穏やかに諭されました。異文化との共同生活のなかで、自分の思いを言葉にして伝えることの大切さと、それを支えてくれる人のありがたさを痛感した出来事でした。
パリでの滞在中、末松先生にはこの一件以外にもさまざまな面でお世話になりました。改めて、この場を借りて感謝の気持ちを伝えたいと思います。若い頃の異文化体験は、今でも私の心の中に色鮮やかに残っています。