伊藤邦武氏の「宇宙の哲学」(講談社学術文庫)の内容について、重要なポイントをまとめてみました。

そこでは、ケプラー、パスカル、ニュートン、カント、パースなどによって宇宙の謎にどのようにアプローチしてきたのかを振りかえり、宇宙の歴史は有限か無限か? 「この宇宙」はどのように生まれたのか? 時間の誕生に以前には何があったのか? などの難問に答えを出そうとしています。

第1項 コスモロジーの自立

近代から現代へと貫く共通の問題意識というものを、ここではそれをさしあたって仮に、「コスモロジーの自立」という言葉で表すことにします。ここでいうコスモロジーの自立とは、宇宙全体の過去から将来までの一切についての認識が、その認識成立の可能性の原理をも含めて、その理論内部の説明原理によって得られることになるような、一種の科学の理想を意味する、としています。

近代の自然科学は、現代に生きるわれわれとは異なったパースペクティヴからではあるが、現代のわれわれと同じように人間の知識の自立ということを主題とし、その可能性を説明するとともに、その意義についても反省を加えようとしていました。それは、科学と哲学とが手をたずさえて、コスモロジーという総合理論を構築しようとする、一つの息の長い理論的な闘争でありました。しかし、そこで展開された哲学的な反省には、いくつかの重大な制約も含まれていました。したがって、その哲学的反省の実質を概観するとともに、その制約の露呈を見極めることが、現代の私たちのコスモロジカルな反省と思弁的努力にとっても、有効な視座を与えてくれるのではないかと思われます。

このような見通しのもとで、本書籍においては、西洋近代哲学における「コスモロジーの自立」の努力とその帰結とを跡づけようとしています。

第2項 ケプラーの夢

ケプラーは1571年にドイツで生まれ、のちプラハでティコ・ブラーエの弟子となり、当時としてはヨーロッパで最も精密な天文学上の観察記録をもっていたブラーエの資料を用いて、火星を中心とする諸惑星の運動論の完成を試みました。その結果、いわゆるケプラーの三法則をみちびいて、ニュートンの万有引力の力学への道を切りひらいたことで知られています。

その三法則とは、「楕円軌道の法則」(惑星は太陽を一焦点とする楕円軌道を描く)、「面積速度恒存の法則」(惑星と太陽間の直線は、単位時間に等しい面積をカヴァーする)、「調和法則」(惑星の公転周期の2乗は、太陽からの平均距離の3乗に比例する)と呼ばれています。

また、ケプラーには「夢」と題される著作があります。このなかに、少なくとも3つの極めて重要な主張がこめられていると考えられます。1つ目は、「科学」すなわち「知識」(これらの言語はいずれもスキエンティア、つまりサイエンスです)とは、それまでの長い無知からの離脱を目指すものであるが、この離脱は子供が親から独立することに等しく、さまざまな感情的な葛藤や混乱をともないがちだ、という主張です。2つ目は、この知識の自立においては、地上の住むわれわれ自身を月のような外の世界から観察する視点が必要であり、いいかえれば、物事を観察したり経験したりしている自分自身をも、外から突き放して考えてみる必要がある、という主張です。そして、3つ目は、こうしたいわば自己中心的な見方からの脱却が可能になるのは、自分たちが経験を通じて得てきたデータだけに満足するのではなくて、それらのデータの背後にある、現象の奥にある本質的な「因果関係」を突き止めようとする努力によるのだ、という主張です。

ケプラーは、彼の著作「新天文学」で、ブラーエの蓄積した膨大な観察データをどうにかして数学的に単純な記述に帰結させしょうとした悪戦苦闘の過程を逐一述べて、その結果ついに、古代ギリシャ以来の根本的固定観念、すなわち、天体は「完全なる図形」である円を描くという思い込みを捨てて、惑星軌道のうちに楕円を読み取ることができた思考の道筋を詳細に語っています。

ケプラーの探究方法は、膨大な観察結果をできるだけ整合的に説明できるような「数学的パターン」の発見を目指したうえで、さらにそのパターンの「因果的説明」を、力学上の理論によって与えようとするものです。彼がいう、自然の「奥」にある本質を探究する方法とは、複雑な現象に隠された単純なパターンの発見と、そのパターンの力学的な説明という二重のプロセスを組み込んだものであり、彼はこの方法を、単に過去に蓄積された体験を無秩序に列挙したものを重視するだけの従来の方法に対置したわけです。

第3講 無限宇宙の永遠の沈黙

パスカルの死後に残された断片集を編纂して出版された「パンセ」のなかに、重要な諸問題が凝縮されたかたちで述べられています。それらの問題とは、すなわち「無限の空間」、「永遠の沈黙」、「恐怖」という三つのタームそれぞれにかかわる問題です。以下、これら三点をめぐる哲学的、宇宙論的議論を簡単にまとめてみます。

(1)空間の無限性
パスカルにとって、宇宙あるいは空間の無限性の思想は、デカルトの思想を受け継いだと考えるのが自然と思われます。デカルトは、その哲学の探究を、アルキメデスの定点ともいうべき「コギト」の原理から出発することによって、精神と物質とを根本的に峻別する二元論的な世界像を樹立しました。これら二つのうち、精神の方は「考えるもの」という本質的規定が与えられ、物質の方には「延長するもの」という規定が与えられました。そして、この延長体が数学的分析の対象となるかぎりで、それには限りがないという意味での「無際限」という形容詞がつけられることになりました。

パスカルの「無限」空間は、このデカルトの消極的意味での無際限な空間を超えて、個別的な延長体における有限性とのさらに明確な対比を強調しようとしたものです。

(2)沈黙、すなわち無目的性
無限に拡がる空間が永遠に沈黙しているというのは、この空間内のさまざまな事象の変化、運動のありかたには何の特別な意義も認められないということであり、運動の果てに設定されている目標というものもないということです。この考えも、デカルトの機械論的自然観を下敷きにしたものであるが、パスカルはこれについても独自なしかたでそれを徹底させる道をとっています。

パスカルは、創造者である神の「存在」そのものが、人間の有限知性によっては知りえないのではないか、と問いかけています。デカルトは、神の存在が、自然の内なる目的性や調和の事実に頼らなくても、「考えるもの」として私の存在から証明できると考えました。しかし、パスカルによれば、神はむしろ、徹頭徹尾われわれの知性の前から「隠れている」としました。その存在は証明されるのではなくて、われわれ一人一人の生を賭けた、不確実な幸福への飛躍によって信じられる他はない。その賭けは、永遠の沈黙を守る自然世界を前にしてなされるのである、としています。

(3)恐怖、あるいは情念
デカルトのいう精神は、延長体である自然世界と完全に断絶しながら、その自然世界を数学的に解析している精神です。この精神がまた延長体である身体というものをもちうるということは、彼の二元論にとっては解くことのできない謎として残されました。パスカルも同様に、人間が精神と身体からなる二重的存在者であることを、われわれの知性にとっては理解できない神秘と見ています。しかし、この神秘は知的レベルでの謎として終わることはできません。というのも、心身の二重存在者である人間はその心身結合のゆえに、情念というものをもつのであり、さらにこの結合体そのものが、無限大の宇宙を前にしてほとんど無に等しく、しかも無限小のミクロな存在者にたいしては無限大にも等しいという、さらに謎めいた二重性をもっているからです。人間が自分自身を心身の結合体とみなし、その結合体としての自己理解のもので、自分自身がマクロとミクロの世界の中間にいわば宙吊りになっていると感じられるということが、パスカルのいう「不安」あるいは「恐怖」なのです。

第4講 時空をめぐる論争

ニュートンは、「プリンキピア」で、「時間」「空間」「場所」「運動」の4つの概念について、それぞれのその相対的なものと絶対的なものとを区別する必要を説いた上で、自然のさまざまな現象を、ただ現象として記述するのではなく、その「真の原因」にまでさかのぼって説明するということは、これらの概念を絶対的な意味で用いて物体の絶対的な運動を明らかにすることであると主張しました。この考えによれば、いかなる物体も存在しないところにも、物体とは独立に空間が存在し、時間が流れていることになります。

一方ライプニッツは、絶対的時空論を否定して、空間や時間はさまざまな物どおしの「併存の関係」と「継起の秩序」を表す副次的なものであり、徹底して事物に相対的なものであると主張しました。そして、彼の形而上学では、本当の意味で実在しているのは精神的な単位(彼の言葉でいうモナド)とされるので、物体とはそのモナドが世界を「映した」現象界を構成する(神によってよく秩序づけられた)諸現象にすぎず、時空はその現象界内部の経験的、相対的な秩序ということになります。

カントは、これら双方の議論の一部を認めつつ、それぞれにさらに一ひねりを加えることを提案します。まず、物体と空間との関係は、ライプニッツのように物とその内部性質というものに還元することはできない、としました。しかし一方、ニュートンがいうようにこの非依存的な空間が現象を超えて、物そのものと同格の、あるいはそれ以上の絶対的な実存性を要求できるわけでもない、としました。カントは、神の世界認識に対比される人間の認識の特徴というものをきわだたせるために、対象の現象性というライプニッツのアイディアを生かし、同時にその現象界の成立の形式的条件として空間・時間を設定することで、「われわれにとっての絶対的なもの」の視点を樹立したのです。

またカントは、神の存在の有無をめぐる一切の知性的な議論や論証というものを廃棄すべきである、と宣言しています。これは、われわれの理論理性(実践にかかわる「実践理性」と対比される「純粋理性」)の探究を厳密に科学的探究にかぎるということ、つまり、神の存在のような形而上学的な問題は、科学の領域に関与することはありえない、ということを意味しています。

時空をわれわれの感覚的対象経験の形式的条件とするこの議論によれば、空間全体が無限であるか、それとも有限であるかという、パスカルらが非常に神経をとがらせた問いも、神の存在と同じように無意味な、原理的に答えのない問いにならざるを得ないということになります。

第5講 レヴォリューション━━回転か革命か

カントは、人間には「原因・結果」や「実体・属性」のような判断の形式(カテゴリー)が「先天的に」そなわっていて、それを通じてのみ一つの十全な「経験」を成立させることができる、としました。つまり、われわれの経験の成立は、時空という感覚的受容の形式と、カテゴリーという判断の形式の二重の作用が加わって、はじめて可能になるというのです。

このようなカントの理論を文字どおりにとると、私たちの自然認識はそれ自体としては客観性を主張できるものではあるが、同時にそれが私たちの認識の形式に全面的に依拠したものであるという意味では、一種の「観念性」をもったものだということになるはずです。いいかえれば、私たちの認識は、「物それ自体」を直接把握したものではなくて、人間の認識の条件に相対的にのみ立ち現れてくるものをとらえたものである、というわけです。

カントは自説のこのような性格をそっくり認めて、それを「超越論的観念論」と呼んでいます(「超越論的観念論」とは、ここでは、「人間と世界との認識関係を、その関係の外側から考察する立場に立ってみると」というような意味で使われています)。そして、このような人間の科学的認識の観念性を認めて、われわれの経験の対象そのものが現象に過ぎないものであることを自覚することこそ、「コペルニクス的な」世界観の転換を意味するものだというのです。

時空やカテゴリーの具体的なありかたを、カントが非常に固定した、不変なものと考えていて、その永遠不変性のゆえにこそ、人間の認識は客観性を確保できるのである、という議論を展開しています。カントがなぜこれらを固定的なものと考えたのか、ということにかんしては、彼がユークリッドの幾何学やアリストテレスの倫理学を唯一の体系とみなしていて、科学的な知識の構成のための形式的な条件は、これらと結びついた時空形式やカテゴリー以外にはありえないと考えていた、ということが指摘されます。

人間の認識を可能にする形式上の条件が固定した、確定的なものであるということを強調すると、われわれの知識の成果は人間の認識のそうした特殊なありかたに照らしてのみ妥当なものであり、したがって「主観的なもの」であるという性格が、どうしても前面に出てくることになります。いわば、人間はニュートン力学という世界像を構築するように定められており、その固定的なパラダイムの枠内で、さまざまな個別的な研究にはげむべきであるということになります。

第6講 決定論の崩壊

ニュートン力学の威力は、19世紀の前半までは、衰えるどころかますます強力なものと認められるようになりました。このようなニュートン力学の万能な力は、ラプラスにいわゆる「魔」(ダイモーン)のたとえによく表されています。フランスの科学者ラプラスは、ある絶大な知性をもち合わせた者がいれば、その者は自然法則と初期条件の知識とによって、全宇宙の全時間を通じた全状態を特定できるであろう、と予想しています。

19世紀末になると、多くの思想家が「偶然」や「非決定性」をさまざまな角度から論じる姿が見うけられます。この時代の哲学者、文学者などで、偶然について思索した哲学上もっとも重要な思想家としては、ニーチェとパースの名前が挙げられます。

19世紀の数十年のあいだに自然世界についての「決定論」(determinism)は、その興隆と崩壊とをあわただしく経験したということになります。まず、ニュートン力学の威力の拡大ということがあります。ラグランジュやラプラスによって確立された、微分方程式の展開による物体の正確な運動予測という方法は、さまざまな分野で応用されたわけですが、それが太陽系の惑星の運行に適用されると、かえっていくつかの観測データとの微妙な食い違いを浮き彫りにして、そこから既知の六つの惑星の外にある別の惑星の存在を予知させる、という結果をもたらしました。海王星や天王星の発見はこのような力学上の予測にもとづいて可能になったのですが、このことは、既知の宇宙像にたいする大きな揺さぶりを意味していたと思われます。

そのうえに、19世紀のなかばに発達した、熱、磁気、電気、化学変化についての諸科学が、力学を中心とした自然科学のありかたを一変させ、「質量」にかわる「エネルギー」という新しい基礎概念を登場させました。この概念によっても、「エネルギー恒存の法則」に見られるように、決定論的了解はさらに強化されたわけですが、一方で熱力学の第二法則、つまり、エントロピー増大の法則が唱えられると、「宇宙の熱的死」という考えが現れてきます。これは、ニュートン力学が暗黙に前提している、自然現象の「可逆性」というものを廃棄することを意味しています。こうして、ニュートン力学的方法の成功と拡張とは、それを宇宙論的に捉えるかぎり、かえって空間的にも時間的にも、不安定な要素をもたらすという様相を帯びてくるわけです。

一方で、マクスウェルは「熱理論」で、複数の分子の運動速度の平均値が統計的に標準的な分布を形成し、それによって非常に多数の分子からなる系全体の物理的作用を特定できる、という議論を展開しています。これは一つの運動系に厳密に妥当するような意味での決定論ではなく、「統計的決定論」という、より緩やかな決定論を認めるということです。

第7講 ビッグバンの方へ

ビッグバン宇宙論が20世紀の50年前後にジョージ・ガモフらによってはじめて唱えられたとき、その理論の根拠となった基本的な考えは、宇宙の始まりのきわめて早い時期には、宇宙全体が高温高密度で、原子核どうしが激しくぶつかりあい、陽子や中性子などがばらばらになっていただろう、というものです。このような考えが具体的に描かれるためには、物質を構成する究極的な粒子についての理論が基本的に完成していなければならなかったわけですが、それは、プランクに始まる20世紀の量子力学あるいは素粒子論の発展によって可能になりました。

一方、このような宇宙の進化的理解が可能となるためには、そもそも宇宙には始まりも終わりもないのではないか、というそれまでの暗黙の大前提(いわゆる「定常宇宙論」)が否定されなければならなかったわけですが、この点については、一般相対性理論によって、宇宙空間の膨張率ということが有意味に問われるようになり、さらにハッブルの星雲間の距離の拡大にかんする仮説が観測によって検証された結果、宇宙が空間的に拡がりをもたなかった時点が、すなわち宇宙の始まりである、という明確な議論がなされるようになったのです。

相対性理論については、ニュートン以来の空間・時間概念と電磁気現象、ことに光の伝播という現象をどのように結びつけるのかという問題から始まって(特殊相対性理論)、そこで考案された「時空」という一体化された世界と重力との結びつきにまで議論が深化して(一般相対性理論)、曲率をもった時空そのものが発展変化するところまで、われわれの世界像は進展しました。

そして一方の量子論においては、電子の理論を出発点にして、電子の構造から、さらに原子核内部の構成要素の特定へと、ミクロの世界の力学的探究が深められると同時に、その分析の道具立てとして、「量子的飛躍」という理論草創期の驚くべき概念が生まれたばかりでなく、さらに、「不確定性定理」「相補性」あるいは「観測における波動の収束」、ひいては「場の量子論」や「反粒子」など、これまでの自然哲学の基本的カテゴリーからは到底思いもつかない、きわめてアクロバティックな概念や原理が、矢つぎばやに導入されることになりました。

しかも、これら二つの根本理論のあいだには、誕生から100年以上たった現在でもいまだに十分な理論的統合がなされていない、という非常に厄介な問題があります。自然世界を構成する四つの基本的力の作用をどう統一的に分析するか、とうい究極的な問題や、ビッグバン以前の本当の意味での宇宙の始まりについて、これらの二つの理論をどのように結びつけて利用すべきなのかという問題など、さまざまなかたちを変えて今日にまでもちこされています。ビッグバン宇宙論がいまだ一つのフィクションであると思われるというのは、その十全な完成の前にこうした数多くの難問が執拗に立ちはだかっているということに他なりません。

カントの哲学は、人間の世界認識がわれわれの思考の形式に全面的に依拠しているがゆえに、われわれの認識は「観念的なもの」であることを認めると同時に、神の存在の如何や、宇宙全体の有限・無限の区別は原理的に論証不可能であるという帰結を承認しました。そのために、彼が用いた議論は、人間の対象受容の能力や因果的な判断の能力の形式的基盤(時空という直観形式とさまざまなカテゴリー)を、ユークリッドの幾何学やアリストテレスの論理学の絶対性に結びつけて理解する、というものでした。

このような近代哲学の代表としてのカント哲学の結論には、ビッグバン宇宙論の構築を目指す今日のわれわれの目からみると、明らかに誤っていたと認めざるをえない面があります。そして、こうした誤りが、彼が根本的に疑うことのなかったわれわれの感覚形式や判断形式の、あまりにも硬直した見方にそのおもだった原因をもつことも明らかです。

補講1 有限説と無限説

宇宙を貫く時間の流れは、無限の過去から始まって無限の未来へと続く永遠のものなのか、それとも、有限の過去のある時点から始まった、あるいは有限の未来において終結するような、有限のものなのか。宇宙の寿命の無限ー有限をめぐるこの問いは、人間の思弁的な問いのなかでももっとも古くからある代表的なものとして、あらゆる神話、宗教、哲学において問題になった問いであると言ってよいでしょう。

思想史のなかでこの問いをめぐる対立としてすぐに思いつくのは、神による「無からの創造」を根拠に基本的に世界の永遠性を否定するユダヤーキリスト教思想と、さまざまな円環的時間や永遠の時間説を謳うギリシャ思想との対立です。しかし、これらの思想においても、その時間論が厳密な意味で有限説であったのか、あるいは無限説であったのかは、正確にはにわかには決定しがたい面があります。

古代ギリシャからスコラ哲学の時代までの西洋の思想をざっと見渡たしただけでも、ユダヤ、ギリシャ以来のヨーロッパの思想においては、宇宙の時間的有限説、無限説が入り乱れて、はっきりとした定説はないということになります。

17世紀から18世紀にかけての思想家をみると、フランスのガッサンディやイギリスのバロウ、ニュートンらにように、宇宙の年齢ということを論じつつはっきりと世界の永遠説を打ち出している人たちが目立ちます。この時代の哲学者が宇宙の時間を無限と考えた基本的な理由は二つあって、一つは世界が神の創造によるとすれば、その被創造物が有限であるはずがない、ということであり、もう一つは、世界が幾何学的な対象として表現できるならば、世界には限界がないはずである、ということです。

カントは、時間が世界のなかにある諸対象の存在や性質に依存しない絶対的なものであるとして、ニュートンの考えに同意する一方で、時間は人間の精神に依存した観念的、主観的なものだとして、ライプニッツの考えも活用しました。彼はこうした調停の結果として、時間はわれわれが世界を感覚的に捉えるときの形式であり、われわれの認識はこの形式によって構成されるかぎりで、「超越論的に観念論的なもの」であるということを結論しました。しかし、この超越的観念論は、時間の絶対・相対という区別を調停することから直接に導かれたというよりも、むしろ正確にいうと、「時間の有限・無限の問題はどこまでいっても解決不可能で、どちらともいえない問題であり、必ずアンチノミーに巻き込まれてしまう」という議論の方から導かれたのです。アンチノミーとは二律背反ということで、二つの主張が矛盾しあってどちらも成立しないということです。

カントの時代以降では、彼のこの決着を決定的なものと認めて、このテーマについては直接には論じないようにするか、あるいは漠然とニュートンの世界像を想定して、世界は無限の過去から続いて無限の未来へとつながっているだろう、というふうに長いこと考えられてきて、それがほとんど哲学の定説であったのです。

ところが20世紀の物理的宇宙論の発展によって突然もう一度、非常に大きな変化をこうむることになりました。ビックバン宇宙開闢説の展開によって、宇宙の起源が約140億年前の出来事として特定され、少なくとも宇宙はその過去にかんしては有限であるということが明らかにされたということです。宇宙が始まりをもつとすれば、カントにいうようなアンチノミーはもちろん成立しないということになり、カントの立場が「誤り」であったということで、そこから近代哲学を学ぶことの意義が改めて鋭く問われることになります。

ビッグバンによる「この宇宙の」誕生が特定の過去の時点の出来事として認められるとしても、私たちには依然として、この宇宙以前にも宇宙の誕生と消滅の連鎖が永遠に続いていて、宇宙全体の時間は結局無限なのではないか、とか、宇宙の誕生「以前」という概念は意味があるのかどうか、といった、哲学的な問いを立てたくなる気持ちが残っているような感じがします。しかも、こうした問いを立てることは実際に今なお可能であり、これらは決して純粋にアプリオリな思弁による空論であるとか、もはや科学的な見地からすればほとんど意味のないたわごとであるとして、退けられる必要はないと考えられるからです。

補講2 カントのアンチノミー

テーゼとして「世界は時間的に有限である」、アンチテーゼとして「世界は時間的に無限である」とします。

カントによるテーゼの証明の要点は次のとおりです。宇宙の過去が無限に遡ることのできるものであるとすると、現在までに時間というものは無限の継起を経てきて、現在において完結しているとうことになる。しかし、無限なものの継起というのは、たとえば数の系列の例からも明らかなように、その本質からして、どこまでいっても完結しないということを特徴としている。したがって、無限に続いている継起が現在において完結しているという考えは、まったく不条理である。

他方、カントによるアンチテーゼの証明の要点は次のとおりです。宇宙が有限の時点で始まったとすると、その宇宙の「始まり」以前には、何もない「空虚な時間」だけが流れていたことになる。そして、この空虚な時間のどこかの時点が、宇宙を生み出したことになる。しかし、空虚な時間というのは、その本質からして、どの時点にも特別の性質が属さないのっぺらぼうの時間であるということを本性としている。したがって、その継起のどこかの時点に宇宙を生み出す特別の性質が宿るというのは、まったく不条理である。

カントのこの議論は、非常によく考え抜かれた議論でできていて、鮮やかな切れ味をもった証明といえますが、そこにはいろいろな理論的前提があらかじめ想定されていることは事実であり、この論証の説得力もそうした想定を認めるという条件つきで初めて獲得されるのだ、ということも確かです。

たとえば、テーゼの証明の方を見ると、そこでは、現在の時点までに無限の時間が続いていたとすると、無限の瞬間の連続が現在の時点で完結したことになるが、そこれは不条理だ、といわれています。このことはなるほどもっともなようですが、よく考えるとこの議論は無限な時間が不可能だということとはまったく別の論理です。テーゼの証明がいっていることは、無限系列の完結は考えられないということだけで、無限な時間という観念に矛盾があるということではありません。

つまり、議論のコアは、現在という時間が無限の系列の完結にように思われるとき、そこには深刻な謎があるということであって、決して無限な時間が不可能だということにはなっていません。そうであるとすると、カントの議論は結局のところ時間の無限性にまつわるさまざまな概念上の整理がついていないことを利用して、アンチノミーのようなものを作り出しているのであって、彼が確信しているほどには独断的理性の自己矛盾を暴き出すことに成功していない、ということもできると思います。

補講3 パースの宇宙論

1890年代にチャールズ・パースは、いわゆる進化論的な宇宙論を発表しました。進化論的宇宙論とは、宇宙には始めの状態があり、そこから発展する論理があり、現在の宇宙の大局的な構造がこの発展の結果としてある、と考えるような、時間的発展の軸にしたがって宇宙を説明する理論モデルのことです。ビッグバン宇宙論は、いうまでもなくこの進化論的宇宙論の一形態であり、宇宙の始まりについてバラバラな素粒子どうしの凝縮した高温高密度な状態があり、そこからの膨張によって現在の宇宙ができたという理論です。ビッグバン宇宙論はいくつかの観測結果と素粒子論との合体のようなものとしてできたものですが、パースの宇宙論は19世紀後半の理論的産物ですから、そうした観測にもとづくものでも、量子論のような物理学に導かれたものでもありません。

パースは、自然界に見られる法則の成立を当の自然界全体の進化の結果と考えればよいとしました。彼は「ミクロのレベルでの非常に多くの不確定的な事象が、結果としてマクロのレベルでの規則的性格を形成する」という、確率統計的な視点の創始者の一人でした。それゆえ、宇宙は無数の「偶然」の海、すなわちカオスから出発しながら、結果としてその大局構造において秩序だった「法則」の体系、コスモスとなるという考えに、自然に進むことができたのです。

パースは、世界には第一性(単項性)、第二性(二項性)、第三性(三項性)の三種類の形式が必要であり、かつこれで十分であるということを主張するとともに、そのための「証明」を提出しました。この三つのカテゴリーは存在論上のエレメントを列挙したものでした。そこでこれらをより具体的なこの世界のうちなる存在者として考えてみると、それぞれ、何らかの「質」、「二つの事物の遭遇」、「それらを媒介する第三者」ということになります。いいかえると、世界の究極的な構成要素とは、確定的な事実となる以前の非限定的、偶然的、自発的な性質の現出と、何らかの作用どおしのぶつかり合い、そしてそのぶつかり合いの根拠、原因、理由となるもの、の三者です。

このカテゴリー論を、「カオスからコスモスへ」という先に出てきた進化論的宇宙論の基礎的なモチーフに重ねてみると、宇宙のこの進化の過程とは、第一性のみの世界から第三性に支配された第二性の世界への移行ということになります。つまり、あらゆる確定的、法則性を免れた混沌の世界から、第三性としての法則性が成長することによって、あらゆる事実が法則に従ったかたちをとって生じるような第二性となる世界への移行というのが、この宇宙全体のもっとも大規模な進展の論理である、ということになるわけです。

世界には三つのカテゴリーが存在するというだけでは、その進行の論理は明らかにならない、むしろ、それらのカテゴリーの存在の様態━━法則性の成長━━が明らかにならなければならないはずです。そして、この法則性の成長を説明するのが、もう一つの数学的観点である「連続性の理論」です。

パースは線上の点の連続性について、線上のそれぞれの点を、ちょうど現代の数学において「超準解析(non-standard analysis)」という考え方に現れる「モナド」に相当するものと考えて、それが「無限小」の距離(近傍)にある無数の「部分点」を含むものと考えました。個々のモナドが含む部分点の数はそれ自体が非可算無限個であるとされ、結果的に線上のあらゆる点を構成する要素の総和は、いかなる無限の数え上げによっても数え上げられない多数性、あるいは濃度をもつものとされます。すなわち、線上のすべての点は現実には特定できない無数の潜在的な点からなり、線という連続体とはこの潜在性の総体、潜在性の集合という特異な存在として、その連続性を保持しているというふうに考えるのです。これは簡単にいえば、真の連続体はその部分からその下位部分を無尽蔵に算出する性質をもったものだ、ということです。

連続性が無尽蔵の算出可能性をもつ潜在性をもつことから、すべての第三性、法則性は、それ自身がさらに進化する傾向をもつこと、さらに高次の法則性を生み出す力をもつということが導かれます。そこで、この理論を使えば、「カオスからコスモスへ」、という進化論的宇宙論のストーリーは、潜在性の連続体という混沌の世界から、さまざまな秩序ある世界、時間や空間に従い、法則に従った世界が次々と体系化していく世界が現れてくるストーリーとして語られることになるのが分かります。

ところで、カテゴリー論の第一性や第三性を使ったこの「カオスからコスモスへ」というストーリーの中で、今日のわれわれの目から見て興味深く思われるのは、この宇宙論がわれわれの現実の「この宇宙」を一つの例示として考えるような、潜在的な無数の宇宙からなる「多宇宙論」の視点を備えているという点です。多宇宙論とは、この現実の宇宙だけが唯一の宇宙ではなく、この宇宙の誕生には無数の宇宙の誕生が先行後続している、あるいは、この宇宙の誕生に平行して無数の宇宙が生まれているという考えです。

パースの考えでは、真の無限からなる連続性の世界とはいくつもの連続体を包み込む「物自体」のようなものであり、そこから有限なわれわれの時間(現象世界)が生まれてくる、ということになります。

パースは「時間の誕生」の有り様は、次のように述べています。一つの世界の始まりはまったくの「無」であり、空間も時間も存在しない。その無限の世界に「閃光」が走り、さらには閃光どおしの「流れ」ということが生じる。この閃光の流れにも継続性のあるものとないものがあり、多くは短期的な継起ののちに消滅する。そして、比較的長期に連なる閃光の連続も、分裂したり融合したりするが、そのなかに一つでもほとんど完全に斉一的な流れができれば、それがわれわれの経験している「時間」となるだろう。

このパースの図式は、ほとんど世界各地に伝えられている世界創造の神話と記述と変わりがないほど、文学的なものです。とはいえ、われわれの今日の科学的宇宙論におけるある種の世界創成のモデルと驚くほど類似していることも、また明らかです。たとえば、空間も時間もない無を量子論的な真空と捉えて、無の世界における「ゆらぎ」を設定し、粒子と反粒子の対生成から超ミクロな宇宙が生まれては収縮するという動きを導き、さらにはそうした超ミクロの宇宙のなかに偶然による急速な膨張、インフレーションの生起を仮定して、最終的にわれわれの観察可能な宇宙の現出を説明するような「無からの創造説」と、この議論はほとんど同じような説明形式をもっています。

時間が生まれるために生じている出来事とは、究極的な連続性の世界におけるさまざまな種類の連続体の発生ということであり、もしも時間が実数的な連続体からできているとすれば、時間の誕生によるこの宇宙の現出とは、母胎である究極の連続性の世界からの、実数の体系の誕生ということを意味します。宇宙の原初に位置する混沌たるカオス、「事実」さえ成立していない偶然的「閃光」のみからできた無秩序とは、カテゴリー論からいえば第一性としての「潜在性」の世界です。真の連続体たる潜在性の連続体とは、この第一性の海というべき世界です。混沌として自然法則に従う物質の単位以前、存在以前の、存在の断片の集合からできています。その意味で、それは「無」であると同時に、もっとも高濃度の集まり、エネルギーの凝縮でもあるような状態と考えられます。

世界は無から生まれた有限なものか、それとも永久の彼方から続いているものなのか。カントは宇宙の寿命が有限でもなければ無限でもないと答えることで、この人類の永遠の謎に一つのピリオドを打ちました。しかしこのピリオドは、決して最終的なピリオドではなかったようです。パースはむしろ、宇宙は(現実的には)有限であるが、同時に(潜在的には)無限でもある、というかたちで、カントの解答を裏返しにする方法を開拓しました。そして、現代のビッグバン宇宙論は今のところこのパースのモデルを踏襲して、多宇宙論の途を進んでいるように見えます。

解説 新しい自然科学は未解決問題に挑めるか 野村泰紀

20世紀以降の物理学は、固定化された時空のなかで物体の力学を考えるというよりは、むしろ時空そのものの理解を深めることによって発展してきました。1905年にはアインシュタインの特殊相対性理論により、空間と時間はデカルトやニュートンが考えていたような独立したものではなく、お互いに「混ざりあう」ことができるものだということが明らかにされます。具体的には、ある(私たちからすると)極端な条件の下では、ある人からみた時間というものが別の人にとっては空間となる(またはその逆)という不思議なことが起こり得ることが示されました。

また同じアインシュタインによって1916年に完成された一般相対性理論では、時空というのは我々が通常言うところの物質があるかどうかなどとは関係なく、それ自体が物理的な意味を持っていることも明らかにされました。たとえば、もしも物質が全くなかったとしても、時空自体がエネルギーを持つということが可能だったり、さらには時空は「曲がったり、丸まったり、波打ったり」することができ、力学の対象になるということも示されました。

そして現在では、時空というものもより基本的な自由度から「創発」されるものだということが明らかになってきています。具体的には、私たちの住む世界は量子力学的な状態で表されますが、時空というのはそれを構成する自由度の間の、量子のもつれと言われる特定の関係を分かりやすく記述したものにすぎないということが分かってきています。すなわち、時空というのは近代の哲学者たちが考えていたような科学的思考に不可欠なものではなく、ある意味で二次的な概念ということです。実際に、時空という概念が存在しない世界は考えることができますし、そのような世界も存在するだろうと考えられます。少なくとも、そういった世界を数学的に記述することは何の問題もありません。

時空の有限、無限性(より現代的には、我々の世界を構成する時空等を記述するために物理的に必要とされる量子的自由度の数の有限、無限性)というテーマは、大変興味をそそられる議論になっています。ちなみに時間とは物理的実体の相関を記述するものにすぎないとする現代物理学の知見によれば、時間的有限/無限と空間的有限/無限には本質的な違いはありません。

現代の量子重力理論では、無限自由度系は(たとえば反ドシッター空間の量子重力理論と非重力の共形場理論の対応などにより)数学的に厳密に定義することが可能だが、有限の系の定式化にはまだ謎が多いという状況にあります。