
マイケル・ポーランの「幻覚剤は役に立つのか」(亜紀書房)について紹介します。マイケル・ポーランは作家、ジャーナリストであるとともに、ハーヴァード大学教授、カリフォルニア大学バークレー校教授でもあります。この本は、東京大学医学部附属病院 医師の紺野大地氏がおすすめしている本です。
紺野氏は、「2022年に読んだ中で間違いなくベスト本だった1冊(発売自体は2020年)。神経科学分野において近年話題となっている「サイケデリック・ドラッグ」について、筆者自身がシロシビンや LSD を飲んだ感想や、これらを飲んだ時の脳のメカニズムが論文ベースで記述されており、衝撃的な1冊でした。」と述べています。
この本において、幻覚剤(サイケデリクス)がそのテーマとして取り扱われていますが、その代表的なものはLSD、マジックマッシュルームに含まれるサイロシビン、ペヨーテなどある種のサボテンに含まれるメスカリン、アマゾン川流域に自生する植物を煎じたアヤワスカなどがあります。いずれも、日本では厳しく規制されています。
よって、この幻覚剤に興味を覚えたからといって、マイケル・ポーランのように自分で試してみるといったことはできないわけですし、あまり興味を持ってはいけない分野なのかもしれません。しかしここでは、幻覚剤による脳の変化を解明する手法は、意識解明の新たなアプローチになりうのではないか、という観点で取り上げてみました。
この本では、幻覚剤の歴史と研究の最前線を追ったものとなっているとともに、著者が自らが幻覚剤体験をして、その心の変化を詳細に書き綴っています。LSD、サイロシビン、5ーMeOーDMT(あるいはトード)を試したときに体験談は、本当にそんなことが起こるのか、というようなことが書かれています。たとえば、次のように現実とは思えない不思議な体験です。
私と呼ばれていたものすべて、60年かけて作り上げられたこの自分は、溶けて景色に散った。つねに考えたり感じたり認識したりしてきた、ここを基盤としてきた主観は、今やあそこに溶けてしまっている客体だ。私はペンキなのだ!
いきなり頭の中に、耳を聾(ろう)する轟きとともに、エネルギーがどっと流れ込んできた。・・・恐怖が襲いかかってきた。そして、水爆実験で吹き飛ぶことになるビキニ環礁に建っていた掘っ立て小屋さながら、「私」はもうそこにいなかった。「私」は圧倒的な爆発力によって紙吹雪のごとく粉々に吹き飛ばされてしまったし、その破片すらももはや頭の中には見つからない。
いずれも、1人でその幻覚剤を試すのではなく、経験豊富なガイド役とともに試すようにしています。それは幻覚剤の作用によって、なにか危険なことが起きないようにするという安全性確保のためです。
さて、このような幻覚は、本当に起きているというのではなく脳の中で幻覚を見ているようなことだと思われますが、実際に試している人によっては、実際に起こっていることのように感じられるようです。たとえば、夜中に夢を見ているとき、その夢の主人公である私は、その夢の中で起きていることがまるで現実にように感じられますが、もしかしたらそのような感覚なのかもしれません。
いったい脳の中でどのようなことが起きているのでしょうか。第5章で、ロビン・カーハート=ハリスという精神科学者の率いるチームが、サイケデリック経験の「神経相関」、つまり体における対応部位を明らかにする研究を続けていることを紹介しています。彼らは、有志の被験者にLSDやサイロシビンを注射し、機能的核磁気共鳴断層画像(fMRI)や脳磁図(MEG)などの走査技術を使って脳内の変化を観察し、自我の溶解や幻覚が起きているときに脳がどうなるかを分析しています。カーハート=ハリスは、大学院で精神分析学を学んでいたのですが、行き詰まりを感じ、2005年に精神分析学から幻覚剤神経科学に軸足を移したとのことですが、幻覚剤と最新の脳画像技術を駆使したこの研究は、意識の解明への1つのアプローチと考えられます。幻覚剤によって脳の中では何が起こるのか、カーハート=ハリスの考えを次のように解説しています。
カーハート=ハリスとその同僚たちは、サイロシビンは、ある特定の脳内ネットワークの機能を低下させることで、脳活動を減少させることを発見した。その特定の脳内ネットワークとはデフォルトモード・ネットワーク(DMN)であり、・・・このネットワークは、大脳皮質の各部分を、記憶や感情などを含む、より深くにある古い脳構造とつなげる、きわめて重要な、脳活動の中心的ハブを形成している。・・・私たちが何に注意を向ける必要もなく、精神的タスクが何もないとき、つまり脳の「デフォルトモード」のときに活動するのが、この脳構造ネットワークなのである。
デフォルトモード・ネットワークと、外界から注意喚起されるたびに活性化するアテンショナル・ネットワークは一種のシーソー関係にある。・・・外界の刺激に対応する知覚から離れて機能するDMNは、私たちが次の「メタ認知」プロセスに従事しているときに最も活性化する。メタ認知プロセスとは、たとえば内省な心の中でのトラベル、精神的な建築(たとえば自己や自我の構築)、道徳的理由づけ・・・などである。
おそらく、カーハート=ハリスの最初の実験で最も衝撃的な発見だったと言えるのは、デフォルトモード・ネットワークの活動が急低下したときと、被験者が「自我の溶解」を経験したと訴えた時点が一致していたことだろう。(「私は、観念としてあるいは概念として、存在しているだけだった」とある被験者は報告した。別の被験者は、「どこまでが自分で、どこからが “周囲” なのか、わからなかった」と語った)。
全体としては、デフォルトモード・ネットワークは脳の各部分に対して抑制的に働き、とくに感情や記憶と司る大脳周縁系を厳しく監視している。・・・しかしデフォルトモード・ネットワークは、内側にあるものを外に出さないようにトップダウンで管理しているだけでなく、外界から意識に入ってこようとするものも規制している。一種のフィルター(「減量バルブ」)として働き、一日一日生きていくのに必要な情報だけを「ほんの1滴」だけ入れる。このフィルター機能がなかったら、ある瞬間に感覚器官が脳に流す情報は、あまりに膨大でとても処理しきれないとわかるだろう。・・・通常の脳はなぜそんなに規制的なのか・・・答えは単純だろう━━「効率」である。こんにち神経科学者の大部分は、脳は予想マシンであるというパラダイムのもとで研究をおこなっている。外部環境を知覚するうえで、脳は経験にもとづいた推測をするのに必要な最小限の情報だけを受け入れる。基本的に、私たちはつねに要点だけを求め、過去の経験に頼って結論を出すのである。
カーハート=ハリスは、幻覚剤が脳のいくつもの確固とした認知力から安定性を奪い、不安定にするのだと考えている。トリップ中の脳は、旧体制の強制(トップダウンの予測)と、感覚器官から送られてくるローデータの受け入れのあいだを「行ったり来たり」してるのではないか。サイケデリック体験のあいだ、いつものトップダウンの現実予測に対する自信が崩れ、ボトムダウンの情報が急にフィルターを通過してくるようになる。ところが、あまりにも大量の情報に圧倒されそうになると、脳は必死に新しい現実予測を作りはじめ、無理に筋を通そうとする。「だから、降りしきる雨の中に顔が見えたりするんだ。そうやって脳は、脳がやりそうなことを真似る」。つまり、自分で自分にお話を話して聞かせて、少しでも状況を安定させようとしているのである。
ここで重要になってくるのは、安静時のぼんやりとしているときに活動する、デフォルトモード・ネットワークです。人間は、できるだけエネルギーを節約して効率的に活動しようと、そのように進化してきました。このデフォルトモード・ネットワークは、脳の活動エネルギーを小さくしようとし、ほかの脳神経活動に対して、まるでオーケストラの指揮者や会社経営者のように監視し制御する役割を果たしていいます。自我や自己意識もここで構築されている可能性もあります。
このように、幻覚剤によって、脳に中では何が起こるかとの問いへの1つの答えとしては、すなわち次のようになります。幻覚剤の影響によって、デフォルトモード・ネットワークという脳内のネットワークで機能が低下し、いままできつく締められていたバルブが緩み、外界から大量の情報が入ってくるようになり、脳はいままで経験していない状況に置かれるが、それになんとか対応するため、新しい現実予想、現実世界を作り上げる、というわけです。
ここでは一部しか紹介できていませんので、興味を持った方は、実際にこの本を購入するなどして、じっくり全体を読んでみてください。ただし、実際に幻覚剤を試すというようなことは控えてください。