
ジェフ・ホーキンスの「脳は世界をどう見ているのか」(早川書房)について、紹介したいと思います。この本は、東京大学医学部卒 医師・神経科学者の紺野大地氏も、「"The Thousand brains theory of Intelligence"という新たな理論の提唱から、最終的には『人類は遺伝子の支配から逃れるべきか』『人類が未来に遺せるものは何か』など壮大なテーマを扱う傑作です。」と、自信を持ってオススメしています。
人間の脳についてはいまだ解明されていないことが数多くあることが、本書をはじめ関連する本から分かってきます。日本では、脳科学者というひとたちが、その肩書をもとに情報発信をしていますが、現在までの研究成果の一部を切り取って、一般に受け入れやすいように話を持っていっているような気がします。脳についての多くが分かっていて、「つまりはこういうことなんだ」とするのは、早すぎるということでしょう。
ホーキンスは、「脳は予測をする」としています。もう少し正確に表現して「新皮質は世界のモデルを学び、そのモデルにもとづいて予測する」とし、これは、常に行われていて休むことはないということです。「脳の予測が正しいと証明されたとき、それはつまり、脳がもつ世界のモデルが正確だということだ。予測がまちがっていたら、人はその誤りに注意を向けて、モデルを更新する」と言っています。さらに、「こうした予測は、脳への入力と合っているかぎり、ほとんど意識されない」が、何らかの変化があるときに、その変化に気づくとしています。
これは、私たちの生活の中であてはめていても納得できます。たとえば、報告書などを読んでいて、いつも書いてありそうなことが書かれていると、そのままどんどん読んでいきますが、途中で、なにか引っかかることがあると、そこに気づき、注意深く読んだりします。これは、こんなことが書いてあるだろうと、その内容についてある程度の予想をつけておいて、どんどん読み進め、途中で、あれっと思うことがあると、そこで何か気づき、これでいいのか、いままでの考えを少し修正すべきか考えるといったことです。
ホーキンスは、そのようなモデルはひとつではなく何千もあって、それぞれが脳の皮質を構成している「皮質コラム」の中に1個ずつ収まっているとしています。その皮質コラム1個あたり約1平方メートルで、人間の脳には約15万個の皮質コラムがある、と述べています。皮質コラムは、「細いスパゲティの小さなかけら」のようなものであり、この皮質コラムは数百の「ミニコラム」に分かれていて、そのミニコラムそれぞれには、100あまりのニューロンが入っている、とのことです。
また、ホーキンスは、「座標系」について述べています。「新皮質はおもに座標系を処理していると考える必要があることだ。・・・脳は世界のモデルを構築するのに、感覚入力を座標系内の位置と関連づける」としています。ある対象物があれば、確かにそれは座標系のなかに落とし込んで、たやすく処理することができそうです。分かりやすい例でいえば、グーグルマップなどの地図があれば、車や自転車で、市役所にどういう経路で行けばいいのか分かります。
この座標系については、次のような要素に分解できるとしています。
1 座標系は新皮質のいたるところに存在する
この前提は、新皮質内のあらゆるコラムには座標系をつくる細胞がある、ということだ。・・・座標系をつくる細胞は、脳の古い部位に見られる格子細胞および場所細胞と似ているが、まったく同じではない。2 座標系は物体だけでなく私たちが知っていることすべてをモデル化するのに使われる
新皮質のコラムはひと束のニューロンにすぎない。コラムは入力が何を表わすかお「知っている」わけではなく、何を学ぶべきかについての事前知識もない。コラムはとにかく、入力を変化させるものの構造を見つけてモデル化しようとするニューロンからなるメカニズムにすぎない。3 すべての知識は座標系に対する位置に保存される
座標系は知能のオプション要素ではなく、脳内のあらゆる情報が保存されている構造である。あなたが知っている事実はすべて、座標系の位置と対になっている。歴史のようなある分野の専門家になるには、歴史的事実を適切な座標系の位置に指定する必要がある。4 考えることは一種の動きである
知っていることがすべて座標系内に保存されているなら、保存されている知識を思い出すためには、適切な座標系内の適切な位置を活性化する必要がある。ニューロンが座標系内の位置を次々呼び覚まして、それぞれの位置に保存されているものを想起させるとき、思考が起こる。私たちが考えているときに経験する一連の思考は、指で物に触れているときに経験する一連の感覚、あるいは、町を歩きまわるときに目に入る一連の事物に似ている。
ホーキンスは、「知能の1000の脳理論」を提唱しています。「脳内の知識は分散している。私たちが知っていることは、1個の細胞や1個のコラムにような1ヵ所に保存されているではない。・・・何かの知識は数千のコラムに分散しているが、それは全コラムの一部である」としています。つまり、知識は何千ものモデルに分散されて、コラムの中に存在しているということです。しかし、そんなに分散していたとして、どうやって1つの知覚として、現れるのでしょうか? ホーキンスは、コラムが「投票」する、としています。「あなたの知覚は、コラムが投票によってたどり着いた合意である」ということです。
以下、私が今回、興味を持った箇所について紹介したいと思います。
まず、どうして脳の世界モデルはまちがう可能性があるのか、3つの基本要因を挙げています。これは、なるほどと思います。自分で経験していないことは、あまり信じてもらえなかったりします。また、人が言う意見を無視することもやりがちです。
1 直接経験できない。誤った信念は必ずと言っていいほど、私たちが直接経験できないことに関することだ。何かを直接観察できなければ━━自分で聞いたり、さわったり、見たりできなければ━━ほかの人が言うことを信頼しなくてはならない。誰の言うことに耳を傾けるかで、何を信じるかが決まる。
2 反証を無視する。誤った信念を維持するには、それに矛盾する証拠を退ける必要がある。ほとんどの誤った信念は、反対の証拠を無視するための行動や根拠を指示する。
3 ウイルス性の広がり。ウイルス性の誤った信念は、その思い込みをほかの人びとに広めることを促す行動を命じる。
「来世はある」という信念は、誤った信念であるとしている主張しています。上の3要素にしたがって、ホーキンスは説明しています。
1 直接経験できない。誰も来世を直接観察できない。そもそも観察できるものではない。
2 反証を無視する。ほかの誤った信念とちがって、これが真実でないことを示す科学的研究はない。来世の存在を否定する主張はだいたい、存在の証拠がないことに根ざしている。そのため、信じている人たちにとって存在しないという主張は無視しやすい。
3 ウイルス性の広がり。来世信仰はウイルス性だ。たとえば、天国があるとする信仰は、それを信じるよう他人を説得しようとすれば、天国に行く可能性が高まると教える。
ただ、来世信仰そのものは無害であるとも言っています。問題になるのは、「来世のほうが現世より重要だと信じるようになるときだ。」としています。これはそのとおりだと思います。ときどき、来世のために現世を犠牲にするような生き方をしている人がいるとしたら、それは悲しいと思います。
また、以前、渡辺正峰氏の「意識の脳科学」(講談社現代新書)について紹介しましたが、そこで「脳のアップロード」について、いいイメージを持っていました。しかし、今回、ホーキンスの本を読むと、いろいろな問題があるのだと気づかされました。特に以下のところは納得です。
あなたの生物学的脳に影響を与えることなく、それを読み出すテクノロジーが実現したとしよう。あなたがスイッチを入れると、脳はコンピューターにコピーされるが、あなたは何も感じない。しばらくしてコンピューターが叫ぶ。「やった! 私は生きている!」 しかしあなたは、つまり生物学的なあなたも、まだここに存在している。あなたがふたりいるのだ。生物学的なあなたと、コンピューターの中のあなただ。コンピューターのあなたが言う。「私はアップロードされたのだから、古い体は必要ないので処分してください」。生物学的あなたは言う。「ちょっと待って。私はまだここにいて、何も変わっていないと感じているのだから死にたくない」。これについて私たちはどうすべきなのか?
このジレンマの解決策は、生物学的あなたが残りの人生を送り、自然死するようにすることかもしれない。
2つの意識が生じるかもしれないという不思議なことが起こり、そして、結局は生身の方ではなく機械の方が残るほうがいいかもしれない、というあまりうれしくないような結果になりそうです。
ここでは一部しか紹介できていませんので、興味を持った方は、実際にこの本を購入するなどして、じっくり全体を読んでみてください。