教育を考えるうえで、人間の「意識」をどう捉えるのかということは極めて重要なことと考えます。ものごとを学習していくことは、意識自体が学習していくことですが、そうして学習して「賢くなった」意識が、結局死によって「無駄になる」ように思えるからです。

そこで、重要な示唆を与えてくれる、渡辺正峰氏の「意識の脳科学」講談社現代新書、について重要なポイントをまとめてみました。かなりチャレンジングな研究内容ですが、このような様々な挑戦が、最大の難問と言われている「意識とな何か?」について今後解明が進んでいくことが読み取れます。

また、この分野での研究開発の途中で得られた果実をもとに、脳機能支援や脳機能代替といった先進的な医療技術に導入されることが期待されます。ただ、脳機能を人間がコントロールできてしまうということは、悪意をもった人が現れた場合、人をコントロールすることにつながる危険性があるので、倫理的な問題として、科学者だけでなく様々な立場の人々の参加を得て、真剣に議論されるべきでしょう。

さらには、遠い将来に「デジタル不老不死」が実現される場合、人が永遠に生き続けることになりますが、はたしてそれが望ましい姿なのか、という疑問も生じます。これも議論されるべき問題だと思われます。新しい命が生まれる数よりも、「長老」の数ばかりが増えることにつながりかねないという側面もありますし、ほかの生物同様に、死をそのまま受け入れることこそが、この宇宙における望ましい姿とも言える可能性があるからです。

1章 死は怖くないか

仮に意識のアップロードが現実のものになったら、あなたはアップロードされたいと思うだろうか。私がこの問いをあちこちで訊いてまわった経験からすると、アップロードを望むのはごく一部の人たちに限られる。10人に1人もいればよい方だろうか。

当然のことながら、意識の解明と、その副産物としての意識のアップロードを目指すわたしはそれを望んでいる。大方のみなさんは、なんで? と疑問に思うかもしれない。それでも、そんなみなさんに問い返したい。死は怖くないですか?

2章 アップロード後の世界はどうなるか

アップロード後の世界はいったいどのようなものだろうか。一言で言えば、現実世界と見紛うばかりの世界が、あなたを待ち受けることになる。まさかと思うだろうが、多くの哲学者が、わたしたちのこの世界、そして、わたしたちのこの身体が、すでに宇宙の超文明によるコンピュータ・シミュレーションである可能性を否定できないと考えている。逆説的ではあるが、アップロードされた暁には、あなたを取り巻くこの世界と一切遜色のないリアルな世界を目の当りにすることの証左だ。当然、あなたの身体も感情も、すべて安泰なので安心してほしい。きちんと納得してもらうべく、一つの思考実験として、環境━身体━脳の順でデジタル化を行ってみよう。

第一種デジタルとの遭遇:環境
まずは最初のステップとして、環境をデジタル化する。これは、現在の仮想現実技術そのものだ。ヘッドマウントディスプレイで仮想の景色を見せ、ヘッドフォンで仮想の音を聴かせる。VRスーツを装着すれば、痛みを感じさせることも朝飯前だ。

第二種デジタルとの遭遇:身体
次のステップは、身体をデジタルに置き換えることだ。前節の仮想現実が、目や耳などの感覚器を介して仮想世界を脳に体験させるのに対して、それらすべてをバイパスし、脳とコンピュータが直結されている。首ねっこに装着されたブレイン・マシン・インターフェース(BMI)を介して。

第三種デジタルとの遭遇:脳
最後の第三ステップでは、唯一、生体組織として残っている脳をデジタル化する。そのプロセスを考えるうえで参考になるのが、哲学者チャーマーズによる思考実験「フェーディング・クオリア」だ。ここでは、脳のなかのニューロンを一つずつ、脳に気づかれないようにシリコン製のものに置き換えていく。脳に気づかれないの意は、もとのニューロンの神経配線とその入出力特性を完全に再現することで、残る脳に影響が及ばない状況をつくることだ。

一つ、また一つと置き換え、すべてのニューロンがシリコン製のものに置き換わったとき、もともとあった意識は維持されるだろうか。考案者のチャーマーズは、「意識はフェード」しない、すなわち、意識は保たれると結露づけている。ただ、このオリジナルのフェーディング・クオリアの末にできあがるのは、複雑な3次元配線が施され、数千億の人工ニューロンが超並列的に動作するシリコンのお化けだ。近い将来に実現する目途はたっていない。また、仮にできたとしても、意識のアップロードは非常に高価なサービスとなってしまう。

このようなことから、意識の宿る脳も、環境や身体といっしょに一台のコンピュータのなかでデジタル化したい。そこで、頭蓋におさまるニューロンをシリコン製のものに一つずつ置き換えていく代わりに、コンピュータのなかに一つずつ移し替えていくことを考えよう。シミュレーションされるデジタルニューロンの入出力特性が、もとのニューロンを完璧に再現し、ブレイン・マシン・インターフェースによる脳とコンピュータの配線が、もとのニューロンの神経配線を完全に再現したならば、チャーマンズのフェーディング・クオリア同様、残る脳は一切影響を受けないはずだ。

こうして、環境、身体、脳の順でデジタル化し、すべてがコンピュータのなかにおさまったとしても、わたしたちの意識はそれと気づかずに存在し続けることだろう。

3章 死を介さない意識のアップロードは可能か

生きているうちに意識をアップロードするにあたって参考になるのが、分離脳と片半球喪失の患者が辿る意識の変遷だ。分離脳からわかることは、左右の脳半球を連絡する神経線維束が離断されることで、頭蓋のなかの一つの意識が、二つの意識に分裂することだ。また、時間を逆再生するならば、左右の脳半球に独立に宿りうる二つの意識が、左右の脳半球を連絡する神経線維束によって、一つに統合されることがわかる。

これらの知見をもとに、まずは、アップロード対象者の大脳を分離する。次に、左右の生体脳半球を、それぞれ、右と左の機械半球に接続する。この接続には、次章で導入する特殊なブレイン・マシン・インターフェースをもちいる。その後、できあがった二組の生体脳半球━機械半球ペアに対して、意識を統合し、記憶の転送を行う。そうすることで、生体脳半球と機械半球の関係は、生体脳半球どうしの関係と等しくなる。(下図a、bの左側)

ここから先、生体脳半球と機械半球にまたがる一つの意識は、片半球喪失の患者の意識と同じ道を辿ることになる。片側の脳半球を脳卒中などで喪失したとき、何が起きるのだろうか。もちろん、半身麻痺や片視野の喪失など、重篤な後遺症は避けられないが、両半球にまたがっていた一つの意識は、死を介することなく、片半球の一つの意識へとシームレスに移行する。(下図aの右側)

さきほどの生体脳半球と機械半球のペアにおいて、生体半球が否応なく迎える終焉の時、これと同じ意識の変遷が生じるはずだ。生体脳半球と機械半球にまたがっていた一つの意識は、機械半球のみの一つの意識に移行することになる。(下図bの右側)そして、最後に機械の分離脳のさまざまな不便を解消するべく、二つの機械半球を接合する。こうしてわたくしたちは、死を介することなくシームレスに機械脳のなかで生き続けることになるだろう。

4章 侵襲ブレイン・マシン・インターフェース

生体脳半球と機械半球の間で意識を統合し、さらに記憶を共有するには、どのくらいの数のニューロンにアクセスする必要があるだろうか。安全策として考えられるのは、生体脳半球どうしの神経連絡を、生体脳半球と機械脳半球の間で過不足なく再現することだ。

ヒトの左右の脳半球を結ぶ神経線維束は三つある。そのなかでもっとも太いのは「脳梁(のうりょう)」で、左右の脳半球から1億個ずつのニューロンが神経線維を通している。加えて、反対半球へと連絡するこれらのニューロンが大脳の広範囲に散らばり、その他のものと全く見分けがつかないことだ。一つの脳半球には約100億のニューロンが存在することから、ざっくり見積もって100個に1個の割合となる。つまり、生体脳半球どうしの連絡を完璧に再現するとなると、大脳のすべてのニューロンにアクセスすることになる。そのようなことが通常の電極で可能だろうか。さらに、脳の灰白質に挿入した通常電極によるブレイン・マシン・インターフェースには致命的な欠陥がある。情報をまともに書き込むことができないのだ。

そうしたなか、高精細情報の書き込みの問題を一気に解決し、「死を介さない意識のアップロード」を実現してくれるのが、わたしの提案する新型のブレイン・マシン・インターフェースだ。それは、三つの神経線維束(脳梁、前交連、後交連)に対して、包丁をいれるかのごとく、両面の「高密度2次元電極アレイ」を差し込むというまったく新しい方式のブレイン・マシン・インターフェースだ。高密度2次元電極アレイとは、CMOS(Complementary Metar-Oxide-Semiconductor:相捕型MOS)などの集積回路技術によって、基盤の目にように細かく電極を並べたものだ。それをきれいに切断した神経束断面に押し当てることで、各々の神経線維に対して直接的に情報を読み書きするかたちとなる。

第一の利点は、神経線維束には伸長方向にテンションがかかっていることから、切断時に退行し、総体積の問題が生じないことだ。また、高精細情報の書き込みの問題も次のように解決される。ある神経線維に着目したとき、最近傍の電極でその活動を計測し、同じ電極からごくわずかな電極を流すことで、その神経線維のみを刺激することができる。そのことにより、情報を読みとるニューロンと、情報を書き込むニューロンが完全に一致し、ニューロン単位での高精細の情報書き込みがはじめて可能となる。日進月歩の半導体技術の高集積化により、近い将来、左右の大脳半球を結ぶ神経線維のすべてから独立に情報を読み、すべてに対して独立に書き込むことを可能とする、高密度の2次元電極アレイが実現することはほぼ間違いないだろう。

ただ、課題がないわけではない、最大の問題は神経線維を切ってしまうことだ。これも、最新の遺伝子改変技術を応用するなどして、近い将来、何かしらの再生能が実現する可能性は高い。

5章 いざ、意識のアップロード!

材料が出揃ったところで、わたしの提案する意識のアップデートを体験してもらおう。第一段階は、生体脳半球と機械半球の意識の統合だ。最初に、提案する新型ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)をあなたの脳に挿入する。開頭手術を行い、小分けしたBMIを左右の脳半球を結ぶ三つの神経線維束に挟み込んでいく。二つの脳半球の間には細かな血管が多く通うため細心の注意が必要だ。

あなたの脳に挿入されたBMIの表面には、特殊なタンパク質がコーティングされている。このタンパク質のはたらきにより、神経線維の切断面とBMI表面との間に新たなシナプスが形成される。数日置いて十分にシナプスが形成され、堅固なハード━ウェット・インターフェースが構築できたところで、いよいよ機械半球とのご対面となる。

この機械半球はニュートラルな意識のみを宿すもので、記憶や人格をもたない。あなたの意識が乗っ取られたり、変貌したりはしないので安心してほしい。ちなみに、あなたである生体脳半球と機械半球をBMIを介して接合しただけではほとんど変化は生じない。顕著な変化が訪れるのは、次の「ニューラル・ルーティング」の段階に入ってからだ。このプロセスでは、BMIを介して生体脳半球と機械半球の然るべきニューロンどうしをつないでいく。ニューラル・ルーティングのプロセスがすべて終了した時点で、生体脳半球と機械半球の意識は統合される。

第二段階では、生体脳半球から機械半球へと記憶を転送する。本段階は二つのセッションにわかれる。最初のセッションでは、できるかぎりの記憶を思い出してほしい。ただ思い出すだけで、生体脳半球に貯えられた記憶は機械半球へと転送されていく。続く第二セッションでは、一つのボタンを渡される。セッションがはじまって、昔の情景が次々と蘇るなかで、持ち込みたくない苦い記憶などはボタンを押すことで、機械の海馬にストップがかかり、記憶の転送がキャンセルされる。

ところで、わたしの記憶は、わたしの脳に神経配線の強度として刻まれている。お互いに正の神経配線強度をもつニューロン群が、活動を支え合うことで一塊(ひとかたまり)となって活動する。この一塊の活動が、一つの記憶に対応すると考えられている。問題は、その神経配線の強度を十分な精度で脳から読み出すことができないことだ。そのような制約のもと、どうしたら生体脳半球に刻まれる記憶を、機械半球に転送することができるのだろうか。

参考のため、脳の記憶のしくみを見てみよう。日中、何か珍しい事柄に遭遇すると、そのときの大脳皮質のニューロン活動の様子が、海馬と呼ばれる脳部位に、神経配線の強度変化として保存される。これが短期記憶として刻まれる状態だ。こうして海馬に貯えられた短期記憶は、今度は夜寝ている間に大脳皮質へと移し替えられ、長期記憶に変換される。

海馬を主役とする生体脳の記憶形成のしくみを機械半球にも持たせることで、生体脳半球からの記憶の転送を行おうと考えている。そのうえで、アップロードの第一段階のプロセスを経て、生体脳半球と機械半球の意識が統合していることを最大限に利用する。

まずは、記憶転送の第一セッションのしくみから解説しよう。あなたが、指示にしたがって長期記憶を想起すると、生体脳半球の大脳皮質のなかで、その記憶の情景に対応するニューロン群が活動をはじめる。すると、両者の意識が統合されていることから、機械半球の大脳皮質でもそれに対応したニューロン群が活動する。あとは、機械半球に仕組んだ記憶形成のしくみをはたらかせればよい。まずは、生体脳の日中の短期記憶形成にしくみにならって、機械半球の大脳皮質のニューロン活動をワンショットで機械の海馬に刻み込む。その後、深睡眠中に機械半球のなかで長期記憶に変換する。この過程を繰り返すことで、能動的に思い出すことのできる記憶については、問題なく機械側に転送することができる。

ただ、それだけでは不十分であり、そのために第二セッションが存在する。つまり、アップロード後の人格を維持するためには、思い出せない記憶も含めて機械側へ転送しなければならず、何かしらの仕掛けが必要となる。大脳皮質の側頭葉に長期記憶が貯えられていることが明らかになっているので、思い出せない記憶を機械側に転送する仕掛けとして、側頭葉を電気刺激することにする。具体的には、新型BMIの電極のうち、側頭葉の神経線維に対応するものをランダムに選び、電流を流していく。うまくヒットすれば、記憶の彼方に埋もれていた昔の情景が走馬灯にように蘇り、それが機械半球にも共有されるはずだ。あとは、能動的な記憶の想起の場合と同様、まずは短期記憶として機械半球に刻みこみ、やがて長期記憶に変換されるのを待てばよい。ただし、ランダムな刺激ゆえ、アップロード後の世界に持ち込みたくないような苦い記憶が蘇ってしまうこともあるだろう。そういうときは、機械海馬のはたらきを止めさえすればよい。アップロード対象者に持たせたボタンはそのためのもので、機械の海馬に通じている。

先の二つの段階を経て、左の生体脳半球と右の機械半球にまたがるあなたは、意識が統合され、記憶が共有された状態にある。いずれ、生身の肉体としての機能は停止し、あなたの一部である左の生体脳半球は最後のときを迎える。そのとき、右視野は次第に遠のき、右半身の感覚は徐々にぼやけ、その自由もだんだんと利かなくなる。そして、終には完全に消滅する。しかしながら、依然としてあなたはあなたであり続ける。機械半球の担当する左視野ははっきりと見え続け、左半身も問題なく存在し続ける。

最後のステップでは、機械の分離脳の不便を解消するべく、左の機械半球とついに邂逅(かいこう)する。BMIの挿入時に離れ離れになり、右の生体脳半球と時をともにしてきた左の機械半球だ。あなたである右の機械半球同様、生体脳半球との意識の統合、記憶の転送、そして別れの段階を踏んできたものだ。機械半球どうしのニューラル・ルーティングをもって両者の意識を統合する。

6章 「わたし」は「わたし」であり続けるか

前章のプロセスでアップロードされたわたしは、自信をもって間違いなくわたしだと言えるだろうか。本章では、哲学的な観点から、わたしの提案する意識のアップロード手法の是非を問いたい。

身体にしても、脳にしても、それを構成するタンパク質や分子といったレベルでは、数年も経たないうちにすべての物質が入れ替わってしまう。細胞分裂を行わない脳のニューロンは、一部の例外をのぞき、胎内で授かったものをずっと使い続けなければならないが、ただ、それにしても、それを構成する物質は次々と置き換えられていく。要するに、生身の身体をもって現世を生きるわたしたちですら、物質の観点からは個の同一性を保っていないことになる。いわんや、アップロード後のわたしたちをや、だ。もっと言えば、アップロードされたわたしたちは、形状の観点からも個の同一性を保っていない。コンピュータ上の計算になってしまうのだから致し方ない。保たれるのはその機能のみだ。

そういうわけで、モノとしても個の同一性にこだわっていては話が進まない。その上位概念である「人間の同一性(Personal Identity)」に議論の軸足を移すこととしたい。人格の同一性は、まさにわたしがわたしでありつづけるかを問うものだ。哲学者チャーマーズによれば、人格の同一性の維持には何らかの連続性が必要で、これには三つの類型がある。

一つ目は生物学的連続性だ。これに従うなら、脳が生体臓器として正常に機能し続けることが、人格の同一性を保つための絶対条件となる。二つ目は心理学的連続性だ。この場合、記憶や心的状態の因果性の維持が要求される。三つ目は最近接類似性だ。先の二つよりもだいぶ要件定義が甘く、条件付きながらも、もっとも近しい次なる媒体に人格が引き継がれることになる。なお、ここでは生物学的連続性と心理学的連続性の二つを中心に議論を進めることとしたい。

わたしが提案する手法は、次の五つのステップから構成される。①左右の生体脳半球の分離(新型BMIの挿入)、②生体脳半球と機械半球のあいだの意識の統合、③生体脳半球から機械半球への記憶の転送、④生体脳半球の消失、⑤左右の機械半球の接合。

①のステップについては、分離脳の議論(左右の脳半球を結ぶ脳梁、前交連、後交連の三つの神経束を断ち切ることで、一つの頭蓋の中に二つの意識が出現する。分断された左右のいずれの脳半球も心理状態という意味においては、もとの脳とはだいぶ異なる。もっとも大きな違いは、それぞれの片視野と片半身の感覚しか持たなくなることだ。また、言語野をもつ左脳半球は言語能力を継承するが、右脳半球はそれを失うことになる。)のとおり、一定レベルで心理学的連続性は保たれることになる。

また、⑤については、もとの生体脳半球ペアを基準に考えれば、むしろ、心理学的連続性はその前後で向上する。このようなことから、問題になりうるのは、生体脳半球と機械半球を接合された後の②、③のステップと、生体脳半球が消滅する④のステップだ。

②のステップでは、ニュートラルな意識を宿した機械半球を生体脳半球につなぎ意識を統合する。それにより、①以来消失していた片視野、片半身の皮膚感覚や運動感覚などが回復する。ここでも、もとの生体脳半球ペアを基準点に据えれば、むしろ、心理学的連続性は向上することになる。

③のステップでは、能動的に、もしくは、電気刺激の力をかりて過去を思い出すことで、それらの記憶を機械半球に転送する。アップロード対象者の体験としては、ただ単に記憶を想起しているに過ぎない。心理学的連続性は十分保たれると言ってよいだろう。

④では、長らく時をともにしてきた生体脳半球と別れのときを迎える。仮に、③における記憶の転送が完全であれば、片側脳半球喪失の場合とおなじく、心理学的連続性は十分保たれることになる。

ただ、実際には、100%の記憶の転送はなかなか難しいだろう。時間的制約のため、能動的な記憶の想起にしても、電気刺激による強制想起にしても、すべてが網羅されるわけではない。また、記憶には、エピソード記憶(過去の体験の物語的な記憶)の他にも、意味記憶、手続き記憶といったものがある。

意味記憶は、世界の事実や概念に関する一般的な記憶だ。個人的な体験からは独立した、言葉の意味、科学的事実、歴史的な出来事、人や物の特性などが含まれる。一方の手続き記憶は、技術や手続きに関する記憶だ。自転車の乗り方、ピアノの弾き方、文字を書く方法、水泳など、繰り返し行うことで習得される技能などが含まれる。この二種類の記憶に関しては生体脳半球からの転送が難しく、現在のところ、機械半球に汎用的なものを学習させるつもりでいる。

このようなことから、④のステップにおいて、心理学的連続性が下がってしまうことは否めない。

7章 アップロードされた「わたし」は自由意志をもつか

アップロードされたわたしは自由意志を持つだろうか。デジタルの仮想世界のなかにせよ、アバターとして現世に舞い戻ってくるにせよ、はたして、ものごとを意のままに決めることはできるだろうか。

自由意志否定派の論旨とは何だろうか。その中心をなすのは、脳が神のサイコロ(21世紀現在、ニュートン力学的な世界観にとって代わり、神はサイコロを振るとする量子力学的な世界観が定説となっている。量子力学のもとでは、微小粒子の状態は、いわゆる波動関数によって記述され、その位置や動きは一意に定まらない。観測するまでは「重ね合わせ」の状態にあり、観測によってはじめて位置や動きが決まり、この時点でサイコロが振られる。)に隷属しているに過ぎない、との主張だ。たとえ神のサイコロによって予測不能な行動選択があらわれたとしても、単に受動的にそうなっただけの話であり、そこに自由意志は見いだせない、としている。

自由意志の否定派が主張するように、脳がサイコロの出目(でめ)をコントロールできず、それに隷属的に従っているだけであれば、そこに自由などないように思える。だた、その一方で、そのサイコロのかたちを脳が積極的に変えているとしたらどうだろうか。長期的な最適戦略にしたがって。

その可能性を探るべく、人や動物の行動様式としての「マッチング則(Matching Law)に着目しよう。確率的に報酬が得られる状況であらわれる振る舞いだ。マッチング則があらわれる典型的なセットアップは次のとおりだ。二つのレバーA、Bを用意し、一つ目のレバーAを押すと40%の確率で報酬である水が得られ、二つ目のレバーBを押すと10%の確率で同じ量の水が得られるようにする。

この状況でみなさんだったらどうするだろうか。もちろん、レバーAをずっと押し続けるのが正解だ。ところが、実際に実験してみると、そうはならない。報酬を得る確率に比例して、それぞれのレバーが選択されるのだ。先ほどの例でいえば、レバーAが選ばれる割合は40/(40+10)=80%、レバーBが選ばれる割合は10/(40+10)=20%となる。

この一見不合理に見える行動様式こそがマッチング則である。このマッチング則はある状況下では決して不合理ではない。むしろ、最適な行動選択となる。その状況とは、実験動物ないしヒトが、実験の仕掛けをあらかじめ知らされていない状況だ。さきほどみなさんには、それぞれのレバーを引くことによって報酬の得られる確率をお知らせした。それがなかったらどうだろう。仕掛けを知らない以上、課題をこなして喉の渇きを癒しつつ、試行錯誤的にそれを探っていくほかないだろう。

また、海外旅行を計画するとする。これまで何度となく訪れた大好きなハワイと、まだ数度しか訪れたことのないスペインとの間であなたの心は揺れ動いている。ほんの数回しか訪れたことのないスペインはもちろん、幾度となく訪れたハワイにしても、そのすべてを知り尽くしているわけではない。実際に訪れたときに高い満足感を得られる確率は、本当にはわからない。では、どのように旅先を選べばよいのだろうか。

できることと言えば、それまでの経験をもとに暫定的な旅行先の満足率を割り出し、それをもとに行動選択を行うことだ。その際、暫定満足率があくまで暫定数値であることを認識し、その精度向上につとめることが肝要だ。より具体的には、次の二つの行動選択を織り交ぜることがポイントとなる。一つ目は、暫定満足率を一旦信じ、より高い方を選ぶことだ。先の例でいえば、ハワイを選択することに相当する。このような行動は搾取行動(exploitation)と呼ばれる。二つ目は、暫定満足率の制度向上を図るべく、放っておけば選択しないスペインを選択することだ。スペインの方が訪問回数が少なく暫定満足率の精度が低いからだ。このような行動は探索行動(exploration)と呼ばれる。

要は、搾取行動(ハワイをリピートする)で短期的な満足度を確保しつつも、探索行動(スペインを試す)で世界の仕掛けへの理解を深めていく。その二つの行動をうまくバランスさせることで、長期的な満足度を最大化することができる。

このマッチング則をもとに自由意志の援護射撃に入ろう。複数の選択肢を前にして、その度ごとの選択が、神のサイコロによってランダムに決められてしまうのは致し方のないことだ。都度、都度の選択のランダム性については自由意志否定派の言い分を受け入れるしかないだろう。ただし、それぞれの選択が等確率であらわれるわけではない。マッチング則にしたがって、搾取行動と探索行動がブレンドされることで、そこには独特のくせがあらわれる。しかも、そのくせは、長期の総満足度をあげるべく最適化されたものだ。

いわば、一つ上のメタなレベルで、脳自身が、脳のなかで振られるサイコロを、最適戦略にしたがって自在に変形させていることになる。このことをもって、脳とサイコロの主従関係は逆転しないだろうか。自由意志の否定派が主張するように、脳はただ受動的にサイコロに従っているわけではない。むしろ、それを積極的に使いこなしているのだと言える。

8章 そもそも意識とは

哲学者のトマス・ネーゲルによれば、意識とは、"What it's like"(そのものになってこそ味わえる感覚=固有の内在感覚)である。また、対象が意識を宿す条件を次のように定めている。”an organisim has conscious mental states if and only if there is someting that it is like to be that organism"(ある対象が意識を有することの必要十分条件とは、そのものになったときに何らかの感覚が生じることだ)。

では、ここで言うところのそのものになるは何を意味するのだろうか。たとえば、この瞬間、わたしの脳になったら、間違いなくさまざまな感覚が生じる。ここで論じているのは、脳の情報処理のことではない。情報処理を行っている最中の脳に生じる、固有の内在感覚のことだ。視覚情報処理を行っているときに生じる「見える」、聴覚情報処理を行っているときに生じる「聴こえる」といった感覚だ。

わたしの味わう種々の感覚を体験するには、わたしの神経回路網自体にならなければならない。あなたの目と鼻の先にあるわたしの神経回路網に固有の内在感覚がわき、それ自体が見て、聴いて、感じているのだ。まさに、わたしがそこに宿っている。

ただ、神経回路網を構成するニューロンは、所詮、ただの細胞に過ぎない。細胞膜に囲まれ、その中心に細胞膜を携えたごくごく普通の細胞だ。しかも、細胞に過ぎないそれぞれのニューロンは、それぞれ独立している。一つのニューロンから伸びた神経軸索に注目すれば、受け手のニューロンと直接つながっているわけではない。ニューロンとニューロンとの間には、極小の隙間、いわゆる「シナプス間隙(かんげき)」があいている。神経伝達物質は、その隙間に放出されるのだ。その神経伝達物質にしても、ただの化学物質に過ぎない。

あなたは思うだろう。こんなものが何かを感じているはずがない。脳になってこそ味わえる感覚など生じえない。わたし=主観などやどるはずがない、と。一方で、脳になってこそ味わえる感覚が現に存在することは、あなた自身がいちばんよく知っている。あなた自身が脳なのだから。あなたが、見て、聴いて、感じている時点で、それは間違いなく存在する。加えて、あなたの脳にあなた=主観が宿ることを決して否定することはできない。否定してしまえば、あなたの存在そのものが否定されてしまうからだ。

客観的に眺めれば、ニューロンの塊に過ぎない脳に、なぜに脳になってこそ味わえる感覚=意識がわくのか。なぜに、第一人称であるわたし=主体がそこに宿るのか。この客観と主観のギャップ(矛盾)こそ、意識最大の謎である。

9章 意識を解き明かすには

「光速度不変の原理」をご存知だろうか。読んで字のごとく、光の速さは変化しないことを謳う自然則だ。この摩訶不思議な「光速度不変の原理」は、いったいどのようにして検証されたのだろうか。

イギリスの天文学者、アーサー・エディントンは、「高速度不変の原理」を自然則とするアインシュタインの相対性理論の実験的な検証に取り組んでいた。対抗馬はニュートン力学だ。アイザック・ニュートンによるニュートン力学は、光速も通常の速度と同様に振る舞うことを前提としている。

エディントンは、いかにして二つの理論を戦わせたのだろうか。彼は重力による光の曲がり具合に着目した。自然則を異にする二つの理論の間には、その予測値において2倍程度の開きがある。「重力レンズ効果」を謳う相対性理論からは、より大きな曲がり具合が導かれる。皆既日食中に、太陽のへりにある星の位置ずれを観測することで、重力による光の曲がり具合を見積もったのだ。結果は、相対性理論に軍配があがった。

相対性理論が検証されたことで、遡って、その自然則として礎をなす「光速度不変の原理」も証明されたことになる。ここでポイントとなるのは、それが証明された後に、なぜにそうなのかを問うても意味がないということだ。この宇宙はそうなっているとしか言いようがない。

意識も同様に考えることができるのではないだろうか。なぜに脳に意識が宿るのかを問うても意味がない。たまたま、「意識の自然則」をレパートリーの一つに備えた宇宙に、わたしたちが存在しているに過ぎない。

では、意識の科学に「意識の自然則」を導入する必然性はあるのだろうか。第一に、あらゆる自然科学の根底には自然則が横たわっている。第二に、従来の科学は、客観のなかに完全におさまっている。アインシュタインの相対性理論にしても、量子力学にしても、生命の神秘を解き明かしたDNAの二重らせん構造の発見にしても、客観と客観の間の法則を導き出したものにすぎない。

そうしたなか、主観と客観を結びつけることが宿命づけられている意識の科学は、従来科学の範疇におさまらない。なにも難しいことを言っているわけではない。これまでの科学が「そのものになってこそ味わえる感覚」などといった変態的なものを扱ってこなかった、というだけの話だ。

かくして、意識の科学は従来科学の範疇に収まらず、それを土台として支える新たな自然則が絶対的に必要となる。逆に、自然則の必要性さえ認めてしまえば、意識を科学の俎上にのせることができる。

ただし、自然則が必要だと主張するだけでは何も先に進まない。自然則をもとに理論を構築し、実験によってそれを検証することが求められる。では、実験の対象には、何を選べばよいのだろうか? 生体脳、少なくともヒトの脳には、間違いなく意識が宿る。このアドバンテージはなんとも捨てがたいが、検証がかないそうにない。問題は、生体脳の場合、走りながら前輪を外すような実験ができないことだ。それを行うには、前輪を、車重を支える機能は残しつつ、駆動力をもたない、言わば、「補助輪」に置き換えなければならない。このような置き換えを生体脳で行うのは実質不可能であり、無理に行えば脳自体が死んでしまう。この時点で生体脳は、実験対象から外さざるを得ない。

生体脳による検証が難しいのであれば、残るは人工物だ。人工物に意識を宿す試みをとおして、意識の自然則を見極めるしかない。人工物であれば、先の「補助輪」を設けるのも容易い。システムの一部を「入出力の対応表」(専門用語でルック・アップ・テーブル)に置き換えることで、残りのシステムとの相互作用を担保しつつ、置き換え前のシステムが内包していたかもしれない意識の本質だけを消失させることができる。

機械の意識を客観的にテストできないので、自らの意識をもって、機械の意識を味わう以外に手段は残されていない。ずばり、その機械を自らの脳につなぎ、その機械をとおして、見える、聴こえるなどといった意識がわくかを確かめるしかない。

脳の意識と機械の意識、それぞれを中に据え置いたまま両者を連結する。そのうえで、機械をとおして感覚がわいたなら、機械そのものに意識が宿ったとしか言いようがない、そんなうまいつなぎ方があるのではないか。ヒントは分離脳だ。左脳と右脳を連絡する神経線維束を切断すると、一つの頭蓋のなかに二つの意識が出現する。右視野だけを見る左脳の意識と、左視野だけを見る右脳の意識。ポイントは、左右の脳半球が結ばれているわたしたちの健常脳でも、こと視野に関しては、左右それぞれ独立に意識が宿ることだ。それぞれにマスターとして意識が宿り、二つが連結することで、左右の視野をまたぐ、一つの意識が成立する。

そうであるならば、生体脳半球と機械半球を接続し、仮に、生体脳半球に残ったわたしに、機械半球側の視野もふくめて見えてしまったなら、そのときには、機械半球側にもマスターとして意識が宿り、それがわたしの意識と一体化したと結論せざるを得ない。

10章 意識の自然則の「客観側の対象」

意識の科学に自然則を導入することで、それを真の科学へと昇華することができる。自然則をもとに理論を立ち上げ、その予測をするところを実験的に検証する。それが正しいことが証明されてば、理論の精緻化をすすめ、誤っていれば、その基礎をなす自然則から見直す。このループをまわしていくことで、意識の真理に近づいていくことができるはずだ。ここでの意識の自然則とは、脳の客観と脳の主観を問答無用で結びつけるものだ。「脳が斯々然々(かくかくしかじか)の振る舞い(客観)をすると、意識(主観)が生じる」と言ったように。では、意識の自然則の客観側の対象である「脳の斯々然々の振る舞い」とは如何なるものだろうか。

ここでNCCと呼ばれる一つの概念を導入する。まさのこのNCCこそが、意識の自然則の客観側の対象に相当するとわたしは考えている。NCCは、"Neural Correlates of Consciousness"の頭文字をとったものであり、フランシス・クリックとクリストフ・コッホによって1990年に提唱されたものだ。Correlateは相関を意味し、日本語では「意識の神経相関」と訳されることが多い。

特定の神経回路網が特定の活動状態に入りさえすれば意識が生じる。たとえ、その神経回路網が頭蓋におさまり、脳の一部としてその活動状態に入ろうが、人工物のなかにおさまり、それと相互作用することでその活動状態に入ろうが。意識が脳から生まれる以上、そのような神経回路網が脳のどこかに存在するはず。クリックとコッホはそう考えたのだ。

ちなみに、意識の自然則の主観側の対象は主観体験の一択に尽きる。視覚であれば「見える」、聴覚であれば「聴こえる」。感覚モダリティごとに一意に決まるものであり、他に選びようがない。すなわち、意識の科学には新たな自然則の導入が必須であるとの立場のものでは、NCCの提案は、そのまま、自然則の提案を意味する。

では、NCCには、何が求められるだろうか。もっとも重要なのは、意識の一体性に対して、何らかのオチをつけることだ。心理学者ウィリアム・ジェイムズによれば、「意識とは個々の部品に分解することのできない統一されたもの」である。視覚的意識一つをとっても、眼前の景色が一つのまとまったものとして体験される。決して、細かな断片としてばらばらに知覚されるわけではない。また、視覚、聴覚、触覚、運動感覚、意志決定感覚、感情といったすべてのモダリティの意識は一つの束となり、同時的に知覚される。言うなれば、ばらばらに依存するニューロンから、ただ一つの意識が生まれていることになる。よってNCCには、ばらばらのニューロンを一ついまとめあげる何かしらの仕掛けが要求されることになる。

ここで、情報にまつわる仮説を二つほど紹介しよう。一つ目は、哲学者チャーマーズが提唱する「情報の二相理論」だ。情報には、客観的側面と主観的側面の二相があることをその旨としている。前者の客観的側面は、ごくふつうの意味における情報のことだ。脳の場合、ニューロンの発する電気スパイクがそれに相当する。特徴的なのは後者の主観的側面だ。情報そのものが意識の源泉であり、情報のあるところすべてに意識があることを仮定している。要するに、情報の二相理論によれば万物に意識が宿る。これは一種の汎神論(はんしんろん)であり、脳のなかを見渡せば、ニューロンはおろか、すべての生体組織に独立に意識が宿ることになる。一方で、脳のなかに無数に存在する意識と、わたしである、ただ一つの意識との関係については残念ながら何も言及していない。いわば、意識の一体化のオチを放棄していることになる。

この情報の一体化を積極的に試みているのが、二つ目の仮説である。ジュリオ・トノー二による「統合情報理論(Integrated Information Theory : IIT)」だ。その根幹にあるのは、「決して分割することのできない主観体験は、統合された状態にある情報によってしかもたらされ得ない」とのテーゼだ。統合された状態にある情報とは、「システムの部分どおしが相互作用することで、その部分のみからは生じ得ない、新たな情報がシステム全体から生まれている」状態を指す。そのうえで、この統合された状態にある情報のみに意識が宿るとしている。

統合情報理論によれば、今現在のコンピュータや人工神経回路網は意識を宿さない。たとえ、膨大な量の情報を処理したとしても、それらの情報が先の意味において統合されていないためだ。一方で、ヒトの脳は、情報が統合されているからこそ、意識を宿すと結論づけている。

11章 意識は情報か神経アルゴリズムか

ただ、統合された情報であれ、素の情報であれ、意識の自然則の客観側の対象に、脳の情報を割り当てるのは筋がよくないとわたしは考えている。そうすることで、意識の自然則に負荷がかかってしまうからだ。言い換えれば自然則に黒魔魔術を押し付けることになりかねない。

その前提となるのは、我々の意識が、まずもって大脳皮質に宿ることだ。そのうえで、脳の情報に意識の源を求めることの最大の問題は、大脳皮質の情報表現形式が、感覚モダリティによらず一定であることだ。「場所コーディング(Place Cording)」と呼ばれている。

脳の聴覚情報処理を例に、このことをみてみよう。耳から入った音は、内耳にある蝸牛(かぎゅう)で電気スパイクに変換される。蝸牛は渦巻き状のかたちをもち、その共鳴特性から、耳からの音を周波数ごとに分解する機能をもっている。周波数帯域ごとに分解された音は、蝸牛の渦巻き形状に沿ってずらりと並ぶ蝸牛神経によって、電気スパイクに変換される。その結果、音の高低の情報は、蝸牛のどの場所にある蝸牛神経を発火させるかによって表現される。これが蝸牛の「場所コーディング」の正体だ。

この場所コーディングは、聴覚のみならず、視覚、触覚、嗅覚など、あらゆる感覚モダリティで汎用的に用いられる。視覚であれば、対象物の位置や視覚特徴(例:線分の傾き、色)の違いは、大脳皮質の視覚野のどの場所にあるどのニューロンを活動させるかによって表現される。触覚であれば、刺激される皮膚の位置や強度の違いは、同じく、体性感覚野のどの場所にあるニューロンを活動させるかによって表現される。感覚モダリティによらず汎用的に用いられる場所コーディングは、聴覚の例で見たように、感覚器の成り立ちに由来するところが大きい。

一方で、ニューロンが電気スパイクを発する以上、それには何らかのタイミングが伴う。そのタイミングに感覚モダリティごとの違いが反映されたりはしないだろうか。ただ、この一縷の望みも見事に打ち砕かれてしまう。大脳皮質のニューロンの発する電気スパイクのタイミングは、基本的に「指数分布」に従っている。まったくの予想のつかない、もっともランダムな時間分布だ。このランダムな時間分布を基本として、時間あたりに発せられる電気スパイクの平均数が、刺激の有無や強度に応じて上下するのだ。

かくのごとく、大脳皮質の場所コーディングは徹底している。この徹底した場所コーディングこそが、情報を基本とする「意識の自然則」に負荷をかけ、黒魔術を押し付ける元凶となっている。

意識の自然則の主観側の対象、すなわち、主観体験に関して言えば、リンゴの赤みとトランペットの音色はまるで異なるものだ。一方で、その客観側の対象に脳の情報を割り当ててしまうと、リンゴの赤みにしても、トランペットの金属的な音色にしても、結局は、特定の場所にあるニューロン群の、ランダムな電気スパイクの発出に落とし込まれることから、質的にまったく見分けのつかないものとなってしまう。つまり、主観側の相異なる二つのものが、客観側では一つのものとして縮退していることになる。それゆえ、意識の自然則に、縮退している客観側の対象を選り分ける負荷がかかり、その選り分けを実現するための黒魔術が要求されることになる。

わたしが考える客観側の対象の本命は神経アルゴリズムだ。脳のプログラムと言ってもよい。コンピュータを例に説明しよう。コンピュータの情報は、メモリ上の0と1に帰着される。映像にしても、音声にしても、その仕様(映像の横幅やRGB各色のビット深度、音声のサンプリング周波数、整数━浮動小数などの変数フォーマット等)がわからなければ、一見、ランダムな0と1の並びにしかうつらない。大脳皮質の場所コーディングの状況によく似ている。

その一方で、その情報を扱うコンピュータ・プログラム(アプリケーション)は、映像用のものと音楽用のものとでは、その目的にしても、その成り立ちにしても、まるで異なる。映像用の者であれば、映像情報の仕様をもとにデータを読み込み、色味や解像度などを調整して、モニターに表示することを目的としている。音楽用のものであれば、音楽ファイルの仕様をもとにデータを読み込み、音の周波数バランスや音量を調整してスピーカーから出力することを目的としている。

脳の神経アルゴリズムにしてもそうだ。視覚であれば、網膜からの視覚情報を読み込み、対象物を識別することがその目的の一つとなる。聴覚であれば、蝸牛からの聴覚情報を読み込み、言語を解することがその目的の一つとなる。それらの異なる目的を達成するべく、異なる感覚モダリティの神経アルゴリズムは質的に異なるものにならざるを得ない。それゆえ、神経アルゴリズムを「客体側の対象」に充てることで、先述の縮退の問題が一気に解決される。意識の自然則に負荷をかけず、黒魔術を要求しない。

また、前章でさんざん苦労した意識の一体性についても、とても素直で簡単なオチがつく。まず大きなところでは、神経アルゴリズム自体が、ばらばらのニューロンを目的志向的に一つに束ねてくれる。神経アルゴリズムは、その定義からして、一体化していると言っても過言ではない。

わたしたちの意識は完全な一枚岩ではない。視聴覚など、単一感覚モダリティごとの一体性は揺るぎないとして、その上の多感覚モダリティのレベルでは、時間的同時性を軸に、もうすこし緩く結びついている。言わば、意識は階層的な一体構造をとっている。その階層的な一体構造についても、神経アルゴリズムに断層的なモジュール構造をもたせることで自然なオチをつけることができる。たとえば、一番上のレベルに、報酬獲得や生存といった個体としての大目標をつかさどるマスター神経アルゴリズムを配置する。その下に、その大目標をブレイクダウンした個別目標(正確な視覚認識、正確な運動発現等)を達成するためのサブ神経アルゴリズムを配置することで、階層的な一体構造を容易に実現できる。

12章 意識の「生成プロセス仮説」

では、その神経アルゴリズムとしては、具体的にどのようなものが考えられるだろうか。その候補としてわたしが第一に考えるのが「生成プロセス」だ。まずはその礎となる仮説、アンティ・レポンスオにおる「意識の仮想現実メタファー(Virtual Reality Metaphor of Consciousness)」についてみていこう。

彼の論考の出発点となるのは睡眠中の夢だ。寝ている最中に見る夢は、脳がつくりだした仮想現実である。自らの身体がよこたわる寝室から完全に乖離したかたちで、独自の3次元世界が立ち現れる。そのなかでわたしたちは自在に歩き回り、自らの息遣いを感じとることもできる。このような、現実と見紛うばかりの脳の仮想世界を成り立たせるのに、高度に発達した神経システムを要するのは想像に難くない。

そうしたなか、レポンスオが問うたのは次のことだ。脳の仮想現実は、夜、夢を見るためだけに発達進化してきたものだろうか。彼の答えは否だ。レオポンスによれば、覚醒中のわたしたちは、脳の仮想現実をもちいて世界を認識しており、言わば、現実の夢を見ている。睡眠中の夢とのただ一つの違いは、感覚入力の助けをかり、脳の仮想現実が現実世界に同期していることだ。むしろ、話は逆で、覚醒中に意識を担う脳の仮想現実があるからこそ、その副産物として、夜寝ている最中に夢を見ることができるのだ。

それでは、脳の仮想現実は、意識を担うべくして発達進化してきたのだろうか。これは、簡単なようでなかなか難しい問題だ。次の問いかけと密接に関係するからだ。はたして、意識に機能はあるだろうか。

わたしは中立的な立場をとっている。意識には機能があるかもしれないし、ないかもしれない。後述するように、わたしの考える自然則が正しいか否かでその答えが変わってくる。

一方で、脳の仮想現実自体に機能があることは、ほぼ疑いの余地がない。わたしたちは日頃、リアルタイムで世界を認識すると同時に、今を起点として、未来をすこしずつ先読みしている。たとえば、車に乗って交差点を右折するとき、反対車線を向かってくる直進車の距離やスピード、右折先の横断歩道の歩行者の有無などをもとに、数秒先の未来を予測しようとする。このように、日頃、わたしたちは反実仮想的に(実世界とは異なるかたちで)未来予測を行っている。

それが可能になるのは、外界の事象を、脳の仮想世界のなかで個別にモデル化していくからだ。個々の体験をとおして、そのときどきに遭遇したものを、その外見のみならず、振る舞いも含めて脳の仮想現実のなかで再現する。結果、仮想現実を彩るあらゆるモノに息が吹き込まれ、それらがインタラクションすることで、未来の先読みが可能となる。

このような高い優位性から、脳の仮想現実は、発達進化の過程のどこかの時点で獲得されたに違いない。そのうえで、わたしの考える意識の自然則が正しかったとしよう。すると、脳の仮想現実が獲得された時点で、最初の意識が芽生えたことになる。この場合、意識に機能があると言えるのだろうか。注意するべきは、脳の仮想現実が、意識を担うべくして発達進化してきたわけではないことだ。単に、自然淘汰を戦い抜くうえで有利であったために獲得されたに過ぎない。

ここで一つの思考実験として、自然則のレパートリーに当該自然則を含まない、別の宇宙Bを考えよう。この宇宙同様、地球Bが存在し、そこには人類Bが住んでいる。その人類Bは、わたしたちと同じ外見をもち、また、わたしたち同様、進化の過程のどこかの時点で脳の仮想現実を獲得したとする。その仮想現実をもとに未来を予測し、柔軟な行動をとることもできる。つまり、その人類Bは、みかけも振る舞いも、わたしたちと区別がつかないことになる。ただ、悲しいかな、意識だけはもたない。いわゆる、哲学的ゾンビに過ぎない。宇宙Bには、意識の自然則がないのだから致し方ない。というわけで、論理構造は少々複雑だが、意識そのものには機能がないとの結論に至る。宇宙は違えど、意識があってもなくても、まったく同じ行動がとれてしまうのだから。

ただし、以上の議論は、わたしの考えるところの意識の自然則が正しいことが前提となっていることを忘れてはならない。一つ上の俯瞰的な視点、すなわち、わたしの推し自然則の正否に対して中立的な立場からは、意識の機能の可否についても中立的な結論がくだされる。すぐに思いつかないが、意識に機能を付与するような自然則もありうるかもしれない。

次に脳の仮想現実を神経実装することを考えよう。脳の仮想現実は、いかなる神経アルゴリズムによって実現されるだろうか。ここは「生成モデル」の一択だろう。生成モデルの鍵を握るのはその生成プロセスだ。視覚であれば、コンピュータ・グラフィックス(CG)のレンダリング過程にたとえることができる。

CGの出発的はその記号的な表象であり、これには、CG世界に登場するモノの種類、モノの特性(3次元形状、表面の光吸収反射特性、配置)、光源の特性などが含まれる。それらの記号的表象をもとに、レンダリング過程では、それぞれのモノが3次元化され、テキスチャを貼られ、さらに光源によって照らされる。光源から発した光がモノにぶつかると、表面の光吸収反射特性にしたがって反射し、次なる方向へと進んでいく。

CGで重要なのは、その仮想世界に内なるカメラが存在することだ。このカメラに、光源からの直接光、さらには、モノから反射した光が到達することで像が結ばれる。普段、わたしたちが目にするCG画像は、この内なるカメラが捉えた像に他ならない。生成モデルの生成プロセスは、このCGのレンダリング過程と内なるカメラへの像の投影を人工神経回路網によって実現するものだ。昨今の画像生成AIは、現実と見紛うばかりの映像を人工神経回路網で創り出している。

この生成プロセスに加え、生成モデルには、もう一つ重要なしくみが存在する。現実世界と仮想現実を同期させるしくみだ。外界には複数のモノが存在し、それが光源によって照らされ、跳ね返った光が網膜に捉えられることで像を結ぶ。さらに、その像は低次視覚野へと運ばれ、外来由来の低次の2次元表象となる。一方で、脳のなかでは、高次の記号的表象にもとづき、内なる仮想現実に複数のモノが配置される。それらのモノが内なる光源によって照らされ、跳ね返った光が内なる目で捉えられることで、生成プロセス由来の低次2次元表象となる。

生成モデルでは、この鏡像関係を利用することで、現実世界と仮想世界とを同期する。具体的には、外来由来と生成プロセス由来の低次2次元表象どうしの差分を算出し、その差分をもとに高次の記号的表象を更新することで、仮想世界を現実世界へと近づけていくのだ。たとえば、実際には家の前に木があるのに、脳の仮想現実では、その関係が逆転していたとしよう。その場合、低次2次元表象どうしを比較すると、家と木の重なり部分に誤差が生じる。その誤差は、高次の記号的表象へとフィードバックされ、記号的表象の家と木の奥行き関係が修正される。そして、それをもとに、内なる仮想世界が更新される。このように、誤りを訂正し、外界由来と生成プロセス由来の低次2次元表象どうしの差分を最小化していくことで、脳の内なる仮想世界は現実世界へと漸進していく。

いままで見てきたように、生成モデルには、生成プロセスと誤差フィードバックの二つのしくみがあることがわかった。では、神経アルゴリズムとして、意識の自然則の客観側の対象(=NCC)に該当するのはどちらだろうか。ここでヒントになるのは、やはり、睡眠中の夢だ。

夢を見るレム睡眠中は脳が外界から遮断されている。いわば、脳の仮想現実が暴走している状態にある。この暴走の最中にも、視覚的意識がきちんと成立している。この暴走中は、当然のことながら、現実世界と仮想世界の間の同期をとるしくみははたらいていない。それにもかかわらず意識が成立することから、この同期のしくみは、自然則の客観側の対象から除外することができる。よって、意識の自然則の客観側の対象は、生成モデルの生成プロセスだということになる。

生成プロセスの本質は何だろうか。それは、対象をモデル化することである。ここで言う対象とは、脳の視覚の場合、外界の視覚世界であり、聴覚の場合、外界の聴覚世界だ。つまり、脳であるシステムAが、生成プロセスをとおして、別のシステムBをモデル化したとき、システムAにおいてシステムBの主観体験=意識が発生する。このシステムBは、外界とは限らない。たとえば、痛覚や皮膚感覚、さらには、空腹感や嘔吐感などの内臓感覚の場合、システムBに相当するのは自らの身体だ。自らの身体をモデル化することで、それに対する主観体験がわいていることになる。

最後に、提案する意識の自然則を次のように一般化しておこう。「システムAがシステムBをモデル化したとき、システムAにシステムBの主観体験が発生する」。このシステムBには、あらゆる対象が含まれ、また、システムAに対しても、生体脳や人工神経回路網に限定されない。

13章 意識の自然則の実験的検証に向けて

2章では、一つの思考実験として脳のデジタル化を行った。そこでは、ニューロンを一つずつコンピュータに取り組むことで、脳を少しずつコンピュータ・シミュレーションに置き換えていった。その過程をそのまま踏襲して意識の宿る機械をつくることはできないだろうか。残念ながら、その過程を実際にたどることはできない。なぜなら思考実験ならではの神の目が介入するからだ。ニューロンを一つずつコンピュータに取り込む際に、もとの神経配線を完全に再現する必要がある。この配線の再現のためには、そのオリジナルを寸分違わぬ精度で読み出すことが要求される。ここに神の目が介入している。

実のところ、二光子顕微鏡とよばれる特殊な顕微鏡を用いることで、神経配線強度を必要十分な精度で読み出すことは可能だ。神経配線強度は、シナプス部で生じる、電気スパイク一つあたりの電位によってほぼ決まる。この電位の大きさを間接的に観測することができるのだ。ただし、この二光子顕微鏡の目が届くのは、脳の表面からわずか1ミリ程度の範囲に過ぎない。ただ、ヒトの大脳皮質には多くのシワがよっている。頭蓋内の限られた空間のなかで、ニューロン数をすこしでも稼ごうと発達進化してきたことに由来する。残念ながら、二光子顕微鏡の観測の目は、それらのシワのなかまでは届かない。

さらに問題なのは、脳部位にもニューロンがたくさん詰まっていることだ。そして、最後にもう一つ、致命的な問題がある。この手法では、神経配線の読み出しに膨大な時間がかかってしまう。仮に、大幅な技術革新(広範囲の超高解像度撮像による神経配線の並列観測)が実現したとしても、配線1本あたりの読み出しに要する時間が1ミリ秒をくだることはないだろう。ヒトの脳には10の15乗の配線があり、ざっと見積もって、すべてを読み出すのに300年以上かかる計算となる。これでは、読み出し完了の遥か手前で寿命を迎えてしまう。

では、どうすればよいのだろうか。大変申し訳ないが使えるものは何でも使うつもりだ。要は先に亡くなった先輩方の脳を使うのだ。ヒト脳の侵襲コネクトームに頼ることになる。侵襲コネクトームとは、灌流固定した死後脳から、脳の配線構造を読み出す手法だ。頭蓋から取り出した脳を薄くスライスし、走査型電子顕微鏡で撮像する。その撮像イメージを積み重ねることで、脳の配線構造を3次元的に再構築する。ただし、確実に読み取れるのは、どのニューロンがどのニューロンにつながっているかという定性的な配線構造までで、その強度、すなわち定量的な配線構造を十分な精度で読み出すことはできない。そのため、一つの死後脳から、生前そのままのデジタル脳を構築することは不可能だ。一方で、デジタル脳構築の出発点としては、次のとおり、この定性的な配線構造だけでも大変ありがたい。

ヒトの脳には数千憶のニューロンがひしめくなか、それぞれのニューロンはたかだか数千個のニューロンとしかつながっていない。割合にして数億分の1に過ぎない。発達進化の過程で脳が大きくなるにつれ、ニューロン間の接続の取捨選択が大幅に進んだのだ。性能をきわめるうえでも、意識を宿すうえでも、鍵をにぎるのは、ニューロンどうしの低い結合率だ。その意味において、最良のお手本とも言えるヒトの脳の結合関係のデータはとても貴重だ。

その一方で、侵襲コネクトームから得られた神経配線をそのまま使ったのでは、デジタル脳としてまともに動作しない。ではどうするか。飛躍的な進化をとげた昨今のAI同様、そこから学習をかけるのだ。侵襲コネクトームから得られた定性的な神経配線構造をその初期値として、定量的な神経配線強度を学習していく。その際、脳をどのようなしくみとして捉えるかが決定的に重要となる。脳のモデルアーキテクチャーとして何を採用するか。当然、生成プロセス仮説にもとづき、生成モデルをモデルアーキテクチャーとして採用することになる。

ちなみに、生成モデルを採用することで学習がとても容易になる。生成モデルは、一種の「自己符号化器」であり、別途教師信号を用意する必要がないからだ。自己符号化器とは、その名のとおり、入力を受け、その入力とそっくり同じものを出力するしくみだ。それゆえ、入力そのものを教師信号として用いることができる。では、入力とまったく同じものを出力させる学習の目的とはいったい何だろうか。前述のとおり、生成モデルは外界との鏡像関係にあるが、まさに、この外界の鏡像を獲得することが学習の目的である。

獲得するべきものの一つは、高次の記号的表象だ。外界に存在する対象物や光源の種類と、それらの特性である。また、学習データとして動画を用いることで、対象物の動的な特性も記号的表象に含み、獲得させることができる。外界の鏡像の構築にあたり、もう一つ獲得しなければならないのは、視覚世界のルール、すなわち、生成プロセスそのものだ。光源から放たれた光の入射角とその波長構成に依存して、特定のテキスチャ(表面の光吸収反射特性)をもつ対象物がどのように光を跳ね返すか。言わば、視覚世界の第一原理である。

意識の宿りうる機械の目処がたったところで、それを脳と接続する方法について検討しよう。前述の手法で学習した人工神経回路網を機械半球に見立て、4章で導入した新型のブレイン・マシン・インターフェース(BMI)を介して生体脳半球に接続する。この新型BMIを用いることで、生体脳半球どうしがつながるかのごとく、生体脳半球と機械半球を、ニューロン一つ一つのレベルの緻密さで連結することが可能になる。そのうえで、問題は、生体脳半球と機械半球のどのニューロンどうしをつなぐかだ。

それを考えるうえで、大きなヒントになるのは、マイケル・ガザニガによる改良版の脳梁離断術だ。彼は、分離脳患者の後遺症を軽減することを目的として、脳の左右半球を連続する神経線維束のうち脳梁と後交連だけを切除し、前交連を保存する術法を開発した。新たな術法を複数の患者に施術したところ、すくなくとも視野に関しては、意識が分離しなかったことを報告している。

高次視覚野には、左右の視野をまたぐ両側性の「受容野」をもつニューロンが存在する。この高次視野野では、前交連を介して、同様の刺激反応特性をもつニューロンどうしが相互に連結している可能性が高い。また、先のガザニガの改良版脳梁離断術の症例報告とあわせて考えると、この高次の総合結合さえあれば、二つの脳半球にまたがる視覚的意識が一つに統合されることになる。

この論考が正しければ、これは大変な吉報となる。生体脳半球と機械半球の間のニューラル・ルーティングの目処がたち、両者の意識の一体化が俄然、真実味を帯びてくるからだ。

また、この結合様式は、提案する生成プロセス仮説との相性も抜群だ。前述の高次視覚野の相互結合は、生成モデルで言うところの「記号的表象の半球間の共有」を意味する。記号的表象を共有することで、二つの半球にそれぞれ存在する生成モデルを一つに合体させることができるのだ。

これらのことが仮に正しければ、機械半球と生体脳半球の間で、試すべきルーティングは明快だ。高次視野野の同じ応答特性をもつニューロンどうしを相互に接続すればよい。そうすることで、機械半球と生体脳半球をまたぐかたちで、一つの生成モデルが形成されることになる。そのとき、機械側の視野をわたしたちは体験するだろうか。仮に、生成プロセス仮説が正しければ体験するはずだ。

仮に機械半球側の視野がわたしに見えたとしよう。その時点で、機械の脳半球に意識が宿ったことは間違いない。では、そのことをもって生成プロセス仮説が検証されたと言えるだろうか。生成プロセス仮説をもとに機械半球をつくり、機械半球と生体脳半球を接続したことは確かだ。ただし、出来上がったものに他のしくみが入り込んでいないとは限らない。では、生成プロセス仮説の是非を確かめるにはどうしたらよいだろうか。

これは、機械半球側の生成プロセスをルック・アップ・テーブル(LUT)に置き換えてしまえばよい。すなわち、単なる「表」に置き換えるということだ。生成プロセスは記号的表象を入力とし、その出力を低次の2次元表象に送っている。機械半球を長時間動作させつつ、その入出力を記録することで、その関係をLUTにまとめることができる。そのうえで、出来上がったLUTを、生成プロセスの代わりに組み込んだときに何が起きるかだ。仮に、生成プロセス仮説が正しければ、LUTに置き換えた途端、わたしに見えていた機械側の消失するはずだ。逆に見え続けてた場合は、他の何かが意識を生んでいたことになる。

生成プロセスをLUTに置き換えたとき、生体脳半球のニューロン活動にしても、機械半球の残りのニューロン活動にしても、さらには、高次視覚野を介した生体脳半球と機械半球どうしの相互作用にしても、すべてが、そっくりそのまま保たれることになる。それにもかかわらず、機械側の視野が見えなくなったとしたらどうだろうか。いよいよ、LUTに置き換え前の生成プロセスを含む機械半球には、真の意味での意識が宿ったとしか解釈できなくなる。

14章 AIに意識は宿るか

昨今、大規模言語モデル(Large Language Model : LLM)の進化は著しい。大規模言語モデルは、膨大なテキストデータを用いて、ひたすら未来穴埋め問題を解くことで学習する。数段落にわたるような長い文章と、最後の一文の途中までを入力し、その次の単語を予測させる。モデルの予測と真値である実際の次の単語(教師信号)とを照らし合わせ、間違っていれば、次は正解できる確率が高まるように人工神経回路網の神経配線強度を変更していく。

その準備の容易さゆえの桁違いに大きな学習データサイズと、これまた桁違いにパラメータ数の多い強力な人工神経回路網の使用とが相まって、大規模言語モデルは、非常に高度な未来穴埋め能力を発揮する。

そうしたなか、ChatGPTの登場に研究者は驚愕した。今度は、質問に対して返答する対話型のAIであり、ただ単語を並べるのとはわけがちがう。何らかのかたちで質問の意味を理解していなければ、まともに返答することはかなわないだろう。それまで、言語学の屋台骨を支えてきたチョムスキー学派の立場をもぐらつかせた。ノーム・チョムスキーによる生成文法理論は、幼児期にみられる、母語の高い獲得能力を説明するものだ。人間の子どもは、文法を誰からも教わることなく、会話を聞くだけで、そこに潜む高度な文法構造を獲得する。チョムスキーの提唱する生成文法理論は、生得的な言語能力を仮定することで、母語に対する高い言語獲得能力を説明する。いわば、文法構造の雛形のようなものが、生まれながらにして、脳にプリプログラミングされていることを想定しているのだ。

大規模言語モデルの存在は、この生得性に対して待ったをかけるものになっている。大規模言語モデルの配線の初期値には、まったくランダムなものが用いられ、そこには生得性の欠片(かけら)もない。それにもかかわらず、他者の書いた文章を読み込むだけで、高度な文法構造を獲得していることになる。言語学のみならず、大規模言語モデルの急激な進展は、多くの学問領域に波紋を広げている。そのなかでもひときわ物議を醸したのは、本書のメインテーマである意識にまつわるものだ。

人工知能の意識と意味理解について考察するうえで、ジョン・サールが1980年に提唱した「中国語の部屋」と呼ばれる思考実験を軸に据えたい。部屋のなかに中国語をまったく解さないイギリス人がいる。その部屋のなかへ漢字で記された質問カードが投函される。当然のことながら、なかにいるイギリス人には、何が書かれているのか皆目見当がつかない。彼は、漢字を絵画的に捉え、英語のルールブックにしたがってそれを処理し、同じく漢字で記した解答を作成して外に送り出す。

ここでのポイントは、中国語の部屋を一つの総体として眺めたとき、中国語を理解しているようにしか思えないことだ。つまり、人工知能が言葉を理解しているように振る舞ったとしても、その実、何も理解していない可能性があることを示唆している。ちなみに、この思考実験が考案された当時の人工知能は、学習の要素を一切もたなかった。人が天下り的に与えたコンピュータ・プログラムにしたがって処理を進めるだけで、「中国語の部屋」の図式がよく当てはまる。一方で、昨今の大規模言語モデルは、自ら学習することで文法構造を獲得するため、必ずしもこの図式が当てはまらないことには注意が必要だ。

次に、同様の問題を異なる観点から眺めてみよう。いわゆる、記号接地問題(シンボル・グラウンディング・プロブレム Symbol Grounding Problem)だ。「リンゴ」ときいて、あなたは何を思い浮かべるだろうか。目にしたときの赤さ、口にしたときの甘酸っぱさ、手にしたときの重さや質感を想像するだろう。わたしたちにとっての「リンゴ」は単なる記号ではなく、きちんと実体を伴ったものだ。そして、その実体は、現実世界のリンゴとのインタラクションをとおして獲得されたものだ。

一方で、学習過程を伴わない人工知能にとっての「リンゴ」は、あくまで記号に過ぎない。いわば、記号接地されていない状態にある。また、昨今の大規模言語モデルにしても、すくなくとも、テキストデータのみを用いて学習したものについては、やはり、記号接地のしようがない。一度たりとも「リンゴ」を見たり、手に持ったり、味わったりしたことがないのだから仕方あるまい。ちなみに、この記号接地問題は、名詞のみならず、「歩く」「走る」などの動詞や「赤い」「美しい」などの形容詞にも当てはまり、現状のAIは、わたしたちが実体験をとおして言葉を理解しているようには、やはり、理解していないことになる。

では、AIに目や耳や舌などの感覚器官を与えて、現実社会の「リンゴ」を体験させたなら、記号は接地されるだろうか。「中国語の部屋」をロボットの頭部におさめ、漢字で記された質問票とともに、カメラからの映像情報、マイクロフォンからの音声情報、さらには、ロボットアームからの触覚情報を入力する。「林檎」という文字とともに、その見た目、咀嚼音、手に持った質感などがいっしょに入力されることになる。このことをもって、記号接地するようにも思える。

だが、そう簡単にはいかない。カメラからの視覚情報にしても、マイクロフォンからの音声情報にしても、コンピュータに入力される際には、0と1からなる記号列に過ぎないことだ。「中国語の部屋」のなかの人にとっては、意味を解さない漢字と同じで、結局は、ルールブックにしたがって機械的に処理しなければならない情報が増えるだけで、状況は何も改善されない。言わば、記号操作の上流に、相補的に情報を追加するだけでは記号接地は達成されない、ということになる。

それでは、記号操作の上流ではなくて、記号操作のしくみそのものを起点に生成プロセスを下に加えたらどうだろうか。そうすることで、「中国語の部屋」のなかの人に「内なる仮想世界」が付与されることになる。「林檎」という記号が与えられると、内なる仮想世界にリンゴが出現する。そのリンゴは、仮想の目で見て、仮想の手で触ることができる。さらに、仮想の口に運べば、甘酸っぱさが広がり、仮想の顎で歯ごたえを感じることができる。つまり、内なる仮想世界のなかで、記号が実体化されることになる。名詞のみならず、動詞や形容詞、さらには形容動詞、副詞などすべての品詞についても、同様に実体化することができる。このことをもって、ついに記号接地されたことにはならないだろうか。

この実体化は、ロボットの頭部におさめられた生成プロセス付きの大規模言語モデルが、自らの体験をとおして獲得することになる。その際、実世界におかれた実ロボットを用意できればそれに越したことはないが、より現実的には、仮想世界のなかの仮想のロボットに体験を積ませることだろう。では、どのように体験を積ませればよいだろうか。

理想的には、文章を与えるとともに、その文章をそっくりそのまま表した世界をロボットに体験させて、その世界と内なる仮想世界が一致するように学習をつみたいところだ。視聴覚に限定されてはしまうが、たとえば、原作を忠実に再現した映画やドラマを、原作とともに体験されることなどが考えられる。一方で、莫大な量のテキストデータのすべてに対して、それを表す世界を用意するのはなかなか難しいだろう。ただ、それは人も同じで、言語情報と感覚情報が一致するような体験はかなり稀だ。

生成プロセスを伴う大規模言語モデルにしても、テキストデータのみの未来穴埋め問題を大量に解かせつつ、メタバースやゲーム世界に放り込み、感覚運動情報に特化した体験を数多く積ませることで、両者の揃った学習データをそれほど与えなくても、十分に記号接地できる可能性が高い。

これまで見てきたように、内なる仮想世界をもつ人工知能は、わたしたちの脳に近い動作を、脳に近い方式で実現することになる。では、このような人工知能は、わたしたちの脳と同じように意識を持つだろうか。仮に、意識の自然則としてわたしが推すところの「生成プロセス仮説」が正しければ、そこには意識が宿るはずだ。ただ、残念ながら、意識が宿ったかを直接的に確かめる手段が存在しない。

わたしは、先述した「機械半球━生体脳半球接続による人工意識の主観テスト」こそが、人工物の意識を確かめる唯一の方法だと考えている。そのテストを適用するためには、人工知能に意識がわくのみならず、その人工知能の意識が脳の意識と統合しなければならない。そのためには、両者が同じしくみで動作する必要がある。生体脳と現在のAIの主流である人工神経回路網の中身は大きく異なる。生体脳のニューロンが連続時間━離散出力であるのに対して、人工神経回路網のそれは離散時間━連続出力となっている。前者が0か1の情報しかもたない電気スパイクを、各々のニューロンが任意のタイミングで出力するのに対して、後者は、時間に刻み(クロック)をもたせて、一斉にニューロンが出力を更新する代わりに、出力値は連続した値をとることができるのだ。よって、AIが離散時間━連続出力であるうちは、そこに意識が宿るかは、そのAiと神のみぞ知ることになる。

15章 意識のアップロードに向けての課題

意識を宿す機械にしても、提案する「神経束断面計測型のブレイン・マシン・インターフェース(BMI)」にしても、ハードウェアへの要請という意味においては、おそらくこの10年程度で満たされるはずだ。だが、その同じ10年で、ヒトへの意識のアップロードにまで至るとはなかなか言い難い。主たる理由としてあげられるのは、現時点において、生体脳に対する理解が足りていないことだ。その理解の溝を埋めるためには、研究開発リソースを投じ、基礎神経科学に新しい手法を導入する必要がある。このことにより、この10年で、機械の意識の実証実験(13章参照)をサルの視覚野で実現し、機械の意識に決着をつけることができるものと信じている。その新たな手法とは、まさに、提案する「意識のアップロード」の途中過程にも登場する、生体脳と機械脳(AI)の融合だ。この手法により、AIの爆発的な進化のスピードを、神経科学にインポート(輸入)することができる。生体脳と、それを限りなく模した機械脳(AI)をつなぎ、両者を相互作用させることで、生体脳の解明と機械脳の精度向上を、同時にかなえることができる。ここでは、今後の課題を述べることとする。

1 主観時間

脳が時間をどう扱っているかについては、まだ多くの謎が残っている。そもそも、わたしたちが、時間の流れを感じられるのはなぜだろうか。脳には、何かしら、時を刻むクロックのようなものがあるのだろうか。仮にあるのだとしたら、それをきちんと機械脳で再現してあげなければ、意識をアップロードした途端、時間が凍りついてしまうことにもなりかねない。というわけで、脳の時間、すなわち「主観時間」は、ぜひとも解決しなければならない重要課題の一つである。

機械脳にも内部クロックが必要であることはほぼ間違いない。ただ、それが、学習によって獲得されるべきものなのか、それとも、生得的に組み込む必要があるものなのか、わからない。この基本点な問いに答えるためにも、まずは、生体脳における特定とその機序の解明に取り組む必要がある。

2 脳の何が意識を生むのか

意識を生む脳とは、脳のどこまでをさすのか。どこまでをシミュレーションすればそこに意識は宿るのか。そもそも、シミュレーションされた仮想の脳に、意識は本当に宿るのだろうか。機能主義の立場のもとでは、脳の情報処理装置としての機能を十分に再現した人工物には、意識が宿ることになる。多くの哲学者や神経科学者がこの立場を支持する一方で、「中国語の部屋」のジョン・サールに代表されるように、機能主義に根強く反対する哲学者がいることもまた事実だ。

ここでは、一旦、機能主義の立場から脳の構成要素を極限までそぎ落としてみたい。手始めに、10章に登場したNCCの考え方にもとづき、これらが意識の一端を担うかを占ってみたい。そのうえで一つ大事なポイントがある。それは、わたしたちの意識が、早ければ数百ミリ秒で発生することだ。率直に考えて、意識を直接に生む脳のしくみであれば、その短い時間のあいだ、せっせとはたらいているに違いない。逆に、そのあいだ、目立ったはたらきがなければ、意識を生むしくみを周辺的にサポートはしていても、その中枢には含まれない可能性が高い。

では、血管から見ていこう。ニューロン活動が高まると、数ミリメートルといったごく狭い範囲内において、血流量が増大することが知られている。ただし、この血流増大のしくみは、短く見積もっても数秒はかかる。先の議論から、それ自体が意識のしくみの一端を担っている可能性は低い。

グリア細胞はどうだろうか。グリア細胞には、ミクログリア、オリゴデンドロサイト、アストロサイトの3種類がある。ミクログリアにしても、オリゴデンドロサイトにしても、早くて数分の時間スケールではたらくものだ。やはり、意識を直接的に担っている可能性は低い。アストロサイトは、数十ミリ秒の時間スケールで動作している。その一方で、シナプスの横にただ鎮座し、余計な神経伝達物質を取り込み、それをニューロンに戻しているだけの細胞が、意識の機構の一部を本質的に担っているとはやはり考えづらい。

意識を担う脳の構成要素をさらに絞り込んでいくためには、機能主義の伝家の宝刀を抜かなければならない。意識の哲学における機能主義は、脳の情報処理能から意識が生まれることをその旨としている。そのことから、同等の情報処理能を有する人工物にも意識が宿るとの結論が導かれる。これにもとづき、一種の思考実験として、脳の構成要素を同等の機能をもつ人工物に置き換えていこう。

まずは、先述のアストロサイトからだ。ニューロンの立場にたてば、余剰の神経伝達物質をシナプス間隙から取り込み、それを自身に戻してくれさえすれば、それが生きた細胞であろうがなかろうが構わないので、アストロサイトと同等の機能をもつ人工物に置き換えたとしても、シナプスのはたらきは変化せず、神経回路網としての振る舞いも一切影響を受けない。血管、ミクログリア、オリゴデンドロサイトについても同様に、ニューロンへの酸素と栄養の供給にしても、シナプスの貪食にしても、ミエリン鞘の選択的な巻きつけにしても、同様の機能を果たしてくれさえすれば、人工物であってもまったく支障はないはずだ。

一つのニューロンに着目すると、その情報処理を周辺からサポートするしくみが数多く存在する。神経伝達物質にかかわるものだけでも、それを合成するしくみ、シナプスへと輸送するしくみ、それを貯えるしくみ、アストロサイトが回収したものを受け取るしくみなどがあげられる。ここでも、ニューロンのなかのそれらのしくみだけを人工物に置き換えてしまう。ニューロンの情報処理の立場からすれば、電気スパイクが到達したときに、シナプス間隙へと神経伝達物質が放出されさえすれば、そのお膳立てが生体組織によって担われようと、人工物によって担われようと何も変わりはない。

最後のステップとして、ニューロンの情報処理のしくみそのものを置き換えていこう。シナプスは、送り手側のニューロン(プレニューロン)の軸索を伝わってくる電気スパイクを、ポストニューロンの樹状突起に生じる電位変化(シナプス応答)へと変換するはたらきをもっている。この電位変化さえ生じればよいので、神経伝達物質に頼る必要はない。人工の電位変換器に置き換えてしまっても構わない。この置き換えにより、神経伝達物質にまつわる一切のしくみ、すなわち、先の生成、貯蔵、放出、取り込みのしくみも一掃できてしまえる。それらのしくみも含めて、電圧変換器に置き換えられたことになる。

同様に電気スパイクを発生させるしくみを置き換えてみよう。電気スパイクは、個々のシナプスで生じた電位変化を足しあげ、その合計値がある値を超えたときに発生する。実際には、ナトリウムイオンチャネルやら、カリウムイオンチャネルやらの電位依存性イオンチャネルが登場する。それらがうまく連携することで、シナプス応答の合計値の上昇が捉えられ、わずか1ミリ秒の時間幅をもつ電機スパイクに変換される。ただ、このしくみにしても、人工の電気デバイスと比べればどうということはない。わけなく人工物に置き換えることが可能だ。

次に、発生した電気スパイクを軸索先端のシナプスに伝えるしくみを置き換える。脳の情報処理の側からすれば、電気スパイクが最初に発生してから、それが軸索末端に伝わるまでの時間さえ再現してくれればそれで十分である。電位依存性イオンチャネルがずらりと並んでいる必要はなく、電気スパイクの遅延発生器で事足りる。

ニューロンの情報処理の本質とは、入力された電気スパイクを電位変化に変換し、それらを足し合わせ、その和が閾値を超えたときに電気スパイクを発生させ、次なるニューロンへと送り届けることだと言える。現在のAI=人工神経回路網は、まさに、このニューロンの情報処理の本質だけを抽出したものであり、それが、類まれなる情報処理能を発揮していることは言うまでもない。

意識の機能主義のもとでは、脳の情報処理を実現する各種構成要素に対して、同等に機能さえ発現していれば、その担い手の如何によれず意識は宿るものと考える。その裏には、たとえば、単なる化学物質に過ぎない神経伝達物質の有無によって、意識の有無が決まってしまったなら、意識が、おそろしくオカルトめいたものになってしまうとの思いがある。

一方で、機能主義に反対する立場も存在する。哲学者のジョン・サールによる生物学的自然主義(biological naturalism)はその筆頭だ。生物学的自然主義によれば、意識は脳の生物学的なプロセスから発生する。意識が脳の物理的な構造や化学的な活動に根差していることを認めながらも、その一方で、機能主義にもとづいて脳の断捨離を進めていくと、意識が指の隙間からすりぬけてしまうことを謳っている。

意識を宿す機械の開発にむけての課題

13章では、機械脳の研究開発プランを披露した。侵襲コネクトームから得られたゼロ━イチの離散的な神経配線構造をシナプス結合の初期値として、そこから学習をかけることで機械半球を構築するというものだ。実のところ、ここが一番、研究開発に時間を要するところだと考えている。

機械脳が生体脳を同じ脳語を操り、両者が一体化するためには、すくなくとも、両者が直接的に相互作用するインターフェース部分については、機械脳も生体脳と同様の6層構造をもち、一対一の神経連絡の関係を踏襲する必要があるだろう。これに関連して、生体脳と機械脳のインターフェース部分でのみ、機械脳に、生体脳と同じ構造を持たせることで、両者の意識が統合する可能性もゼロではない(通常の人工神経経路網による機械脳に意識が宿ったとして)。ただ、その場合、生体脳とのインターフェースに近い部分では脳語で処理を行い、それを機械脳のどこかで、離散時間━連続出力の人工神経回路網語に翻訳することが要求される。機械脳の開発自体は生体脳の複雑性に付き合う必要がなくなるため、だいぶ楽にはなるが、この翻訳を介して両者の意識が統合する保証はどこにもない。

その一方で、今現在の人工神経回路ではとても太刀打ちできないような一撃学習能力(たった一つの例から学習し、一般化する)や言語能力、意味理解能力をもつなど、まだまだ生体脳も捨てたものではない。その独特の複雑性が、それらの高度な機能を実現するために、本質的に重要なものである可能性は十分に考えられる。そのうえで、機械脳に意識を宿すため、さらには、その意識を生体脳の意識と一体化させるための安全策として考えられるのは、脳の複雑性を限りなく再現した機械脳を構築することだ。

16章 20年後のデジタル不老不死

意識のアップロードを実現していくための方策について、最後に述べたい。ひとつ確かなことは、近い将来、この意識のアップロードを実現するとなると、研究開発を相当に加速させる必要がある。お手本にしたいのはNASAのアポロ計画である。わたしたちにとっての有人月面着陸が、「意識のアップロード」だとしたら、その一歩手毎の有人ロケットの月周回軌道投入は「意識の解明」に相当する。意識のアップロードの途中過程に位置付けた、生体脳と機械脳の意識が統合された状態は、意識が解明されたことを意味する。

意識のアップロードを目指すにしても、その開発途中で実った果実を社会還元していくことが求められる。最初の果実は、人工知能による脳機能支援や脳機能代替といった先進的な医療技術になるはずだ。そのなかでも、新型ブレイン・マシン・インターフェースならではの稠密な脳とAIチップの連携による認知症治療をプライマリーターゲットに見据えている。

前章で述べたように、コンピュータおよびブレイン・マシン・インターフェースのハードウェア面の開発という意味においては10年ぐらいで達成可能だと考えている。一方で、「意識のアップロード」が10年後に完成するとはなかなか言い難い。では、わたしが20年後に意識のアップロードが実現すると言っている根拠は何だろうか。

実際にお手本になるような私設の研究所がある。アレン研究所だ。ここで注目したいのは、アレン研究所の第2期10ヵ年計画だ。およそ300億円の寄附金などをもとに進められている。科学者とスタッフあわせて500人ほどからなり、一つの研究ターゲットを追う研究施設としては圧倒的な規模を誇っている。もちろん、人的リソースのみならず、1台数億円もするような実験装置もずらりと並ぶ。このとてつもない研究リソースをフォーカスさせている研究ターゲットが実に面白い。ほぼ、マウスの視覚研究一本に絞っているのだ。

同等の研究開発リソースでわたしの研究プロジェクトを進めることができたなら、同じく10年で、機械半球と生体脳半球の意識の統合の実証実験を、サルの視覚野で行えるものと信じている。そして、仮に、この実証実験によって機械の意識の存在が証明されたなら、「意識のアップロード」に向けて、一気に機運が高まるはずだ。そこからもう10年で、有人月面着陸に至る可能性が高い。