独立行政法人国立青少年教育振興機構の概要

目的

独立行政法人国立青少年教育振興機構法によって、当該機構の目的が定められています。
①青少年教育指導者その他の青少年教育関係者に対する研修
②青少年の団体宿泊訓練その他の青少年に対する研修
③青少年教育に関する施設及び団体相互間の連絡及び協力の促進
④青少年教育に関する団体に対する助成金の交付等
を行うことにより、
青少年教育の振興及び健全な青少年の育成を図ることを目的とする。
となっています。

沿革

いまから60年以上前、昭和34年(1959年)4月に、皇太子殿下(現在の上皇陛下)のご成婚を記念して国立中央青年の家を静岡県の御殿場に設置したことから歴史が始まります。

その御殿場の土地は、従来、米軍のレクリエーションセンターとして利用されていたものが、昭和33年(1958年)7月に、日本側に返還され、「その地を広く全国の青少年に開放し、その教養娯楽その他各種の青年活動のセンターとすること」を、地元の静岡県と御殿場市が強く要望し、総理府及び文部省が中心となって、この活用方策について研究を進めた結果、国立の青年の家を設置することが適当であるということになりました。

また、戦後十数年経過し、特に青少年の非行の問題を中心に青少年問題は重要な社会問題となっており、この問題の解決を図るためには、健全な青少年の育成の対策が求められていたこともありました。

昭和39年(1964年)に東京オリンピックが開催されましたが、その選手村の一部敷地・施設を活用し、青少年の健全育成を図るための施設として、昭和40年(1960年)4月、オリンピック記念青少年総合センターが設立されました。

昭和50年(1975年)には、学制100年記念事業の一環として、国立室戸少年自然の家が設置されました。(明治5年(1872年)8月2日に太政官布告、昭和47年(1972年)8月2日は、満百年にあたる。)

当時、「急激な都市化や核家族化の進行に伴い、少年は自然から隔絶され、孤独な生活環境に置かれるなど、少年の望ましい成長を著しく阻害する要因が増大している。このため、少年を大自然の中に開放することが何よりも緊要である。」とされたのでした。

その後、昭和51年(1971年)までに、全国で13か所に国立青年の家が、平成3年(1991年)までに全国14か所に国立少年自然の家が、設置されることになります。

平成13年(2001年)に、3つの独立行政法人を設立することになり、平成18年(2006年)には、その3法人が統合して、独立行政法人国立青少年教育振興機構が発足しました。

沿革に関する参考資料

日本の青少年教育施設発展史(上巻)~青年の家等篇~ (平成13年2月28日、宮本一(みやもとはじめ)、日常出版) 
日本の青少年教育施設発展史実(下巻)~少年自然の家等篇~ (平成13年11月30日、宮本一、日常出版)

若衆宿関係

わが国における青年の共同宿泊の源流のもう一つのものとしては、若衆宿がある。

これは、江戸時代以前から農村にあった「若衆組」「若手組」「若者仲間」「若同行」などと呼ばれる青年の自治団体が実践してきた自発的制度の一つである。夕食をすませた青年たちが集まって、夜なべをしながら、村落の後継者としての訓練を受ける合宿所のことである。文化・文政年間以後では、読書、習字、算盤等の学習もあったが、主に「若衆条目」または「若衆規則」に基づいた青年層の精神教育の場であった。名称も土地によって、「若衆組」「寝宿」「泊り宿」「若屋」「若い者部屋」「小屋」または単に「やど」と呼ばれた。

若衆宿は西日本において発達の著しい制度で、その機能は次の3つに集約される。
 ① 若者の結婚準備の場
 ② 村落の後継者としての訓練の場
 ③ 村落の警防、救助のための詰所(つめしょ)

各村落ごとに設けられ、男子15歳の正月4日に「宿入り」をし、15~18歳の間を「小若衆」、19歳以上を「中老」、その上に「元老」「宿頭」または「頭取」という段階がある。最後の「宿頭」には、最年長者がその任に就くところと、まったく別の大人が就任するところがあった。結婚すると退宿し、自宅で夜を過ごすことができた。

青年たちは、毎日夕食を終えると参集し、朝帰宅して朝食をとる日課であり、前記の機能を果たすかたわら、青年たちにとって楽しい仲間づきあいの場でもあった。

なお、この時代の村落というのは現在の町内会くらいの広さが独立した村であった。参考までに明治初期の「北豊島郡」(現豊島区・北区付近)の村名をあげれば田端村、中里村、上駒込村、西ヶ原村、上尾久村、下尾久村、町屋村、滝野川村、堀之内村、王子村、十条村、神谷村、下村(現志茂)、赤羽根村、岩渕村、川口村、・・・である。京浜東北線や地下鉄南北線等の各駅の名前が出ることからも大体の規模がわかろうというものである。この規模は全国的に同じとみてよいであろう。つまり、若衆宿とはそのような規模の独立した自治体ごとに存在したのである。

国立中央青年の家関係

米軍基地の縮小と基地跡の平和利用への願い

地元御殿場市に住む根上ツナ氏(当時市教育委員)は、昭和31年に米軍キャンプ富士の閉鎖がうわさにのぼった当時から、米軍ノースキャンプ跡地に青少年のための文化センターを設置する構想を持っていた。彼女は積極的に行動し、キャンプ富士司令官と地元御殿場の代表が月に1回会合する東富士演習場日米連絡協議会において、勝又教育長とともに、この問題を提案したが、当時は権限外のこととして、顧みられることはなかった。

これは米軍側としてはまさに権限外のことであったかもしれないが、地元代表者の中にも、演習場閉鎖後は直ちに自衛隊の使用を願う考え方のほうが強かったこともあったと思われる。

根上ツナ氏は大正13年アメリカのペンシルベニア州のチェンバーグバース市の大学に語学専攻として渡米入学し、昭和3年に卒業し帰国したアメリカ理解の先覚者であり、戦後はたまたま昭和28年から進駐軍のアメリカン・スクールの教師として、アメリカの青少年に日本語を教えるかたわら、自宅を開放してまで駐留米軍の司令官他の将校たちの日本理解に力を尽くしていた。このため、根上氏の考え方は次第に基地関係の人々にも浸透したのであった。米軍駐留軍の縮減と基地の一部返還というアメリカの方針もこうした中で、いち早く根上氏の知るところとなった。

米軍駐留軍の基地の中には、グラウンド、体育館をはじめさまざまな娯楽施設も備わっていた。米軍の撤退も本格的なプログラムになるようになり、根上氏は、「あの立派な体育館、グラウンド、サービス・クラブをそのまま捨てるのはもったいない。米軍の子どもたちに比べて健全な娯楽施設をもたない日本の子どもたちのために施設を開放してほしい」との希望を捨てず、機会あるごとに精力的に各方面に腹らきかけられたのであった。御殿場市長を説得し、その仲介で斉藤静岡県知事への陳情の結果、昭和33年に入ってこの趣旨が認められ、静岡県が積極的に動くことになったのである。

勝又御殿場市長もまたたいへん熱心で、昭和33年5月、岸総理が箱根へ週末ゴルフで来た折、無理やりに連れて、ノース・キャンプ跡を案内し、同行した根上氏は岸総理に直接その所信を披瀝する機会があったという。

根上氏は当初、米軍がキャンプ富士に駐留してから、市民との間に自然と日米親善の足掛かりができたことをよろこび、米軍撤退後もこの足掛かりを永久に残すために、同キャンプ施設内に日米合同の文化センターを作り、市民の国際性向上に資するものにしたいと考えていた。また一方、彼女は自分の留学した都市との姉妹都市計画も着々と進めていた。

静岡県の富士青少年センターを開設するまで

ノース・キャンプ返還を見越した静岡県の対応

旧陸軍演習場を含め、およそ230万㎡(約70万坪)が、戦後米軍に接収され、その中は、ノース(北)キャンプ、ミドル(中)キャンプ、サウス(南)キャンプと大別されて3つの米軍キャンプが設置された。

昭和32年末以来の米軍の撤退に伴い、サウス・キャンプおよびミドル・キャンプは昭和33年6月9日に、ノース・キャンプは同年7月2日付で日本に返還されることになった。防衛庁は演習場及び3つのキャンプの跡地を自衛隊が使用することを希望したが、静岡県はこの3つのキャンプのすべてが自衛隊帰属になることを希望しなかった。特にノース・キャンプは御殿場駅から至近の距離にあり、富士箱根国立公園の雄大・豪壮な景観の中心に位置していることもあり、ノース・キャンプ内の娯楽施設を広く青少年に開放し、もって青少年の教養・娯楽の幅広い活動のセンターにしたい旨強く希望した。

昭和33年6月2日、静岡県知事斉藤寿夫は定例部課長会議で特に発言し、ノース・キャンプ返還後の処置として、これを青少年のために開放し、有効適切に活用できるよう実現方の運動を行いたい旨の意志を表明し、直ちに県教育長に対し利用計画の即時立案を指示している。

教育長は県教育委員会事務局の各課長にこの趣旨を伝達し、これを受けて翌6月3日、体育保健課長他の一行が現地を視察した。これを迎えたのが勝又御殿場市長、根上教育委員であった。両者の視察は、体育館、映画館、食堂、宿舎、将校クラブ、プール、グラウンドその他であった。

6月4日、斉藤知事は上京し、岸総理大臣に対して返還の際の条件のひとつとして、ノース・キャンプの教育・娯楽施設の部分を青少年のために開放し、国の施設として青少年のための教養・娯楽センターを設置されたいと要望している。

6月3日の視察後の報告に基づいて、続いて県教育委員会社会教育課長が上京し、文部省に対し次のような説明を行った。それによると、
ア 富士ノース・キャンプは7月2日付で返還されること。
イ 返還される施設の一部をこの夏、静岡県において、青少年のために使用したいこと。その範囲はノース・キャンプ全体18万坪のうち娯楽施設のある部分40,000坪(建坪4,000坪)であること。
ウ この旨、知事から岸首相に申し入れてあること。
エ 静岡県としては次の方針をもっていること。
(ア) 上記4万坪の部分は昭和34年度から国の施設として企画実施されたい。
(イ) 県としては、今夏は300人~500人が宿泊できる施設として活用したい。
(ウ) 対象は、高校生、青年団、中小企業その他の従業員とする。
(エ) この施設を、「富士青少年センター」と呼ぶこととする。
となっている。

この間、静岡県は県西部の青年の家建設について国の補助金を得るため、数次にわたる折衝を重ねてきていたが、この件については1年延期し、富士青少年センターに全力を投入することとしている。

国立青年の家の設置について

昭和33年8月9日 文部省社会教育局社会教育施設主任官室

1 設置の趣旨
青少年が富士山麓の広大な自然の中で共同生活し、大いに自然の気を養うとともに、相互の交歓、野外活動、研修等を通じ、教養の向上をはかるための施設とする。
2 設置場所
御殿場市滝ヶ原ノースキャンプ場
3 事業
(1)青年の宿泊に関すること(生活訓練、合宿、キャンプセンターなど)
(2)青年の研修会、講習会、発表会、読書会、鑑賞等の開催に関すること(音楽、映画、図書、料理、動植物の採集、自然研究など)
(3)青年のレクリエーション、登山その他の野外活動、親睦交歓等に関すること(キャンプ、ハイキング、各種スポーツ、フォークダンス、室内屋外ゲーム、演劇、合唱、その他)
(4)その他青年の教養の向上に役立つ事業
4 運営
(1)評議会を置き、各種事業の企画実施案について調査審議する。
(2)昭和34年度は、全国の男女勤労青年、高等学校生徒等について、1期間10日、年間30回、前期(6月~9月)は毎回500名、後期(10月~3月)は毎回200名を対象として事業を行う。
5 備考
(1)昭和35年以降は1期間の収容力が800名となる。
(2)施設は、現在施設の補修整備を行うほか、宿舎、食堂、炊事場等を新築する。

文部省設置法の一部を改正する法律案

(前略)
第25条の2の次に次の一条を加える。
(国立中央青年の家)
第25条の3 本省に国立中央青年の家を置く。
2 国立中央青年の家は団体宿泊訓練を通じて健全な青年の育成を図るための機関とする。
3 国立中央青年の家は静岡県に置く。
4 国立中央青年の家の内部組織は、文部省令で定める。

文部省設置法の一部を改正する法律案の提案理由及び内容の概要説明

第31回国会における昭和34年2月3日の文部省設置法の一部を改正する法律案の提案理由及び内容の概要説明において、橋本文部大臣は次のように述べている。

「・・・次に国立中央青年の家設置に関する事項について御説明申し上げます。従来、都道府県あるいは市においては、青年の健全な育成を図るため社会教育施設として青年の家が設置されて参っており、国もこれに対して助成措置を講じて参ったのでありますが、このたび、全国青年のための団体宿泊訓練を行う機関として国立中央青年の家を設置し、健全な青年の育成に資することにいたしました。これは米軍から返還された静岡県東富士演習場の施設の一部を利用し、これを整備して、新年度より必要な事業を開始する予定になっております。以上が・・・」

第31回国会衆議院内閣委員会における文部省設置法の一部改正に関する審議

高見文部政務次官(政府委員)
「考えている国立中央青年の家は、全国にたくさん作るが、その青年の家の中央センターをもっていきたい。もちろん青年を集団宿泊させるし、団体訓練はしますが、いわゆるヒットラー・ユーゲントというようなものの考え方でおるのではない。従来のいわゆる団体宿泊とか団体訓練とかいうものの観念とは大よそちがった、自治的な集団の活動に重点を置いて考えている。」

第31回国会参議院内閣委員会における文部省設置法の一部改正に関する審議

橋本文部大臣
「地方公共団体で作られている青年の家は社会教育法の精神に従い、たいへん喜ばれていること。そこでは、青年たちが共同生活を通じて、自発的に規律の精神を体得したり、また、共同学習を通じて社会的な知識を持ったりということをやっているが、これはきわめて意義のあることである。これを地方地方にとどめず、より広い視野から、全国の青年が一堂に会して青年相互の研修と交歓をはかる機会を与えることにしたいのが設立の趣旨である。

福田社会教育局長
「一流のホテルやなにかにように個々の個人個人を泊めるのではなく、ある程度まとまった青年の宿泊を期待している。これは地方青年の家でも同じであり、団体宿泊訓練とは共同生活を通じて若い人たちに必要な規律だとか、あるいは共同の精神を養ってもらうことである。

文部省設置法 改正 昭和34年4月13日 法律第130号

(社会教育局の事務)
第10条 社会教育局においては、左の事務をつかさどる。ただし、(以下略)
(一~五 略)
 五の二 国立中央青年の家を管理し、及び運営すること。
(以下略)
(中略)
(国立中央青年の家)
第25条の3 本省に国立中央青年の家を置く。
2 国立中央青年の家は団体宿泊訓練を通じて健全な青年の育成を図るための機関とする。
3 国立中央青年の家は、静岡県に置く。
4 国立中央青年の家の内部組織は文部省令で定める。
附 則
この法律は、公布の日から施行する。

昭和34年9月19日国立中央青年の家開所式 福田社会教育局長経過報告

「文部省におきましては、青少年活動を促進するために従来から地方に青年の家の設置を奨励して参りました。現在までに設置いたしました青年の家は昭和30年度から昭和33年度までに小規模のものも併せて42ヶ所、昭和34年度において15ヶ所を建設中であり、既にそれぞれの地域で相当の成果を収めております。

これら地方の青年の家の整備に伴い全国の青年が一堂に会して、全国的視野のもとに各種の研修や行事を行うことのできる中央の施設を設ける必要のあることが痛感せられていたのであります。

幸い富士山麓のこの地に岸総理の御提唱によって国立中央青年の家が設置されましたことは、わたくしども関係者一同喜びにたえないところであります。

この施設は、従来米軍がレクリエーションセンターとして利用していたものでありましたが、昨年7月2日に日本側に返還されていたのであります。

静岡県および御殿場市の地元当局におかれましては、このレクリエーションセンターが御殿場駅から至近の距離にあり、富士箱根伊豆国立公園の雄大豪壮な景観の中心に位置していることから、これを広く全国の青少年に開放し、その教養娯楽その他各種の青年活動のセンターとすることを強く要望されたのであります。

このような考えから国の施設として、これを活用してはどうかという申し出が静岡県知事を通じてなされました。またこの間静岡県においては、昨年夏この一部を利用いたしまして、試験的に県内の青少年を集めて各種の行事を実施してみて、相当の好成績を収められました。

このような経過をたどりまして、総理府および文部省が中心となりまして、この活用方策について研究をすすめた結果、国立の青年の家を設置するに適当であるということになりました。

ここに米軍施設の返還に伴う政府の方針に関する昭和34年1月16日の閣議決定のうちに、この施設を利用して国立中央青年の家を設置することが決められたのであります。

この決定に従いまして準備を進め、文部省所管の施設として昭和34年度予算に運営費を含めて約1億2千万円が計上されたのであります。また同時に国立中央青年の家の設置を内容とする、文部省設置法の一部を改正する法律が昭和34年4月14日付をもって公布され、制度的には同日をもって発足いたしました。

この施設のある土地は民公有地でありますが、この使用につきましても地元の玉穂財産区、社団法人愛郷会の方々と数次にわたって交渉いたしました結果、いろいろの御事情があったにもかかわらず、青年の家に対しては快く御協力をいただき、本年5月30日土地使用に関する仮協定を締結できたのであります。

ここにおいて早急に工事に着手することになりましたが、さらに6月6日付をもって横浜調達局から当該施設の一部使用承認を得て入札の結果、井上工業株式会社、日昭電気株式会社ならびに三建設備株式会社において整備することになりました。この間まことに短期間であり、しかも梅雨の季節であったので心配しました。当初は全く見栄えのしない施設でありましたが、関係者の御努力によって御覧のように全く面目を一新するまでに改修することができました。

このようにして8月20日に工事は一応完成したのでありますが、この工事に要しました経費は、約7千万円であります。

この施設は、宿泊定員約400人であり、宿泊施設のほか食堂、浴室、研修、レクリエーション等のための施設、設備を有しておりますので、青年の家の各種の文化活動、学習活動、体育レクリエーション活動などに十分利用されうると思います。

なお、この機会に御案内をいたしておきますが、ここに参る途中にある旧米軍軍事顧問団の宿舎3棟もこの中央青年の家の施設として活用することとし、手続き中でございますので、両施設を合せ将来は約550人程度宿泊可能な施設として、名実ともに全国の青年のために有意義な活動を開始いたしたいと存じております。」

昭和34年9月19日国立中央青年の家開所式 岸信介内閣総理大臣祝辞

「本日ここに皇太子殿下ならびに秩父宮妃殿下のご臨席を仰ぎ、国立青年の家の開所式が挙行されることはまことに慶賀にたえません。
青少年教育の重要性は今さら申し上げるまでもありませんが、わが国の将来を担う青少年を心身ともに健全な青少年として育成し、国家社会の有為な形成者たらしめることは極めて重要なことであります。

しかるに戦後十数年を経過した今日、青少年を取り巻く環境は必ずしも良好とは言えない状況でありまして、特に青少年の非行の問題を中心に青少年問題は重要な社会問題となっていることは否めない事実であります。

この問題の解決を図るためには、健全な青少年の育成対策を中心といたしまして、あらゆる面からの総合対策を確立して、その実をあげて参らなければならないのであって、その意味からも、この度設置されました国立中央青年の家の使命は大きいものがあると存じます。

霊峰富士のもとでここにあい集う全国各地の青少年が、研修に、スポーツに、レクリエーションに相互の経験を語り合い、交歓しながら、明朗な団体生活をおくり、何ものかを得てその郷土に帰り、郷土建設の中心となることを期待してやみません。

今後この施設が設備充実され、円滑な運営が行われるためには、いろいろ関係者各位の御努力と御苦心とにまつところが多いこととは思いますが、全国の青年の期待にこたえるためにも、なおいっそうの御努力をお願いしたいものと存じます。

ここに所感の一端をのべてお祝いの言葉といたします。」

オリンピック記念青少年総合センター関係

前史

国立青少年総合センターは明治神宮の森の隣にある。平成3年まで建造物は4階建のビルディング15棟がその中心であった。これらの建物はアメリカが日本を占領していた期間にワシントン・ハイツ独身用将校宿舎(Bachelor Officers Quarter)として建てられたものであった。

また、さらにさかのぼれば、現在の国立青少年総合センターの敷地は、現東京都体育館、代々木公園、NHK、などとともに昭和20年までは代々木練兵所として明治42年に開かれたところである。昭和20年10月、進駐してきた米軍に接収され、20年近く米軍の使用に供されている。この間、15棟の建設があり、昭和30年8月にワシントン・ハイツ総合将校宿舎として完成している。

東京オリンピック代々木選手村

1954年5月、西ドイツのミュンヘンで開かれた第55回IOC総会で、1964年(昭和39年)第18回オリンピック競技大会の東京開催が決まった。第12回オリンピック競技大会の東京開催が第二次世界大戦のために開催返上という前史がある。

オリンピック東京招致が決まったとき、選手村の第一候補とされたのが東京代々木のワシントン・ハイツであったが、おそらく日本への返還は無理であろうとの予測から、埼玉県朝霞の在日アメリカ軍宿舎キャンプドレイクの南側地域を選手村の予定地に決め、政府はその返還をアメリカに要請した。このときアメリカ側から、キャンプドレイクの一時使用の便宜は供与するが、全面返還には応じられないとの回答があった。

一方、思いがけなく、代々木のワシントン・ハイツについては、移転経費を日本側が負担すれば全面返還に応じてもよいとの意向が伝えられた。選手村は朝霞を前提として進められていたため、紆余曲折はあったが、結局昭和36年10月閣議において選手村はワシントン・ハイツに変更れ、以後「代々木選手村」と呼ばれることになった。

代々木選手村は27万坪という広大さをもち、旧15棟の建物のうち、1~4号棟は女子選手村、5~10号棟はBブロック、11~14棟はAブロック、15棟は診療所として使用された。

オリンピック大会終了後のワシントン・ハイツに跡地利用計画

ワシントン・ハイツの跡地利用計画は、屋内総合競技場に25,000坪、NHK施設に25,000坪、独立家屋のある地区17万坪は森林公園として東京都に、残りの独身将校宿舎は森林公園計画からはずして別の利用に供すること、という大まかな話し合いはあった。

この残った跡地の利用については、都心であり閑静で交通の便利もよいという好条件を備えていたので、各方面からさまざまの希望が出された。例示すれば、15棟全体を住宅団地とする。地方から上京する修学旅行のための宿舎とする。都会で野外活動の機会を提供できるユースホステルとする。ショッピング・センターや社員住宅のために部分的に払い下げとする、等であった。しかし、大勢はこの地区を青少年の施設として利用させたいという方向に固まっていった。
初代オリンピック記念青少年総合センター理事長北岡健二は、社会教育(昭和41年4月号)の中に寄せた一文の中に、次のように述べている。

旧陸軍の代々木練兵所に米軍のワシントン・ハイツが建設され、それが38年12月に米軍から全面的に返還された。そしてオリンピック東京大会の代々木選手村となった。ところで遡って36年10月にワシントン・ハイツを選手村に充てることが閣議で決まると、諸外国の先例にならって選手村跡を何にするかという議論がはじまり当時の灘尾文部大臣は青少年のための施設にしたいという意向を表明された。一方都民のための森林公園にという意向も強く、結局この2つの線が纒(まと)って、ハイツの中で木造建物の方は取り払って森林公園に、鉄筋コンクリート造の独身将校宿舎の方は青少年のための施設にということになった。そうなると(中略)われに2むね、おれも1むねというように各方面からそれぞれ立派な目的を掲げて分割要求が起きってきた。しかし政府・政界、有識者の間にはそれではオリンピックの記念の意義がうすくなるし、活用範囲が狭くなるとして一括論が圧倒的であった。そしてこの選手村施設は(中略)青少年のスポーツのための施設に限定されないで、ひろく青少年のための施設でなければならない、また各種青少年活動に分割独占されてもいけない。それをうまく調和させ、みんなが満足するように運営しなければいけない。それには行政機関の直営でなくて、特殊法人に経営の責任をもたせるがよいという構想に纏ってきたのである。

長谷川竣衆議院議員を中心とする有志国会議員はオリンピック開催前から、次代の日本を背負う青少年の施設にするべきであるとして文部省関係者を督励していた。これを支援するかのように昭和39年2月の衆議院予算分科会で、「ワシントン・ハイツの鉄筋コンクリートの建物は壊さずにおき、ここを宿舎として、青少年たちが隣の森林公園に出かけて野外の鍛錬をすれば、心身ともに研修できる青少年センターとなるが、このようなものを作ってはどうか」という質問があり、時の灘尾文部大臣も全面的に賛成している。

これらを受けて、組織的には青少年健全育成の総合的な立場から、総理府が「青少年総合センター」の設置について要望することとなり、最終的に文部省が窓口となることになった。文部省においては体育局を中心に跡地利用として青少年センター構想が早くから練られていた。保健体育審議会において審議された「オリンピック記念青少年センター」構想がこれである。

オリンピック記念青少年センターの構想

保健体育審議会が審議の結果とりまとめた試案は、国が特殊法人「オリンピック記念青少年センター」(仮称)を設立し、これに整備した施設設備を出資し、管理運営を行わせることである。

以下、この構想試案の全貌を紹介しておく

オリンピック記念青少年センターの構想
1 設置の趣旨
オリンピック東京大会は、わが国スポーツ界にとって画期的なできごとであるばかりでなく、国民特に青少年にとって永久に記念されるべき世紀の祭典である。この大会に際し、世界各国から集ってきた選手たちのいこいと交歓の場となっていた選手村の一部(森林公園指定域外の地域)の施設を、同大会終了後次代を担う青少年の健全な育成を図るための総合的な施設(仮称「オリンピック記念青少年センター」)として活用することは、オリンピック東京開催の趣旨に照らし、最も有意義なことであると考えられる。

しかも、この地域は明治神宮本殿聖域わきの清純な場所にあり、かつその周辺には国立競技場、屋内競技場をはじめとする各種スポーツ文化施設が完備しているので、この転用を図るにあたっては、この環境に最も相応しい方途を考えるべきであり、それには若い世代の研修といこいの場としてこれを活用すること以上に適切なものはないと考える。

オリンピック記念青少年センターは、体育、スポーツの指導者の養成、体育の科学的研究、青少年の研修等を行うとともに各種スポーツ、社会教育行事の際の宿泊集団訓練および相互交歓の場を提供し、さらに高校、大学の学徒や民間企業の社員等の集団合宿、訓練または各種国際交流による来日外国青少年の短期滞在施設として利用する等、あらゆる方面にわたって健全な青少年活動を協力に促進するための総合的施設として運営するものとする。

2 管理運営
国は、特殊法人「オリンピック記念青少年センター」(仮称)を設置し、これに整備した施設設備を出資し、管理運営を行わせることとする。

3 事業
(1)体育、スポーツを通じての青少年の研修および指導者の養成等を行い、もってわが国におけるスポーツの普及をはかるとともに体育、スポーツに関する基礎的、応用的研究を行うこと。
(2)社会教育関係の行事等に際し青少年を宿泊させ、相互の研修及び交歓をはかること。
(3)各種国際交流によって来日する外国人青少年(在日留学生を含む)の短期宿泊を通じて国際交歓をはかり、国際理解を深めること。
(4)中学校、高等学校及び大学の学生生徒ならびに官庁、民間企業の職員等に対し、集団宿泊を通じて必要な研修、指導を行う。
(5)以上の外、青少年の年齢層の者を対象とする集団による研修指導の場に供すること。
(略)

オリンピック記念青少年総合センター法

「オリンピック記念青少年センター」は保健体育審議会の構想に示されたように特殊法人として設置することとなり、「オリンピック記念青少年総合センター法案」は昭和40年2月15日上程され、2月16日、衆議院文教委員会に付託された。審議はほぼ順調に進捗し、昭和40年4月9日法律第45号として「オリンピック記念青少年総合センター法」が公布され、4月13日施行されることになった。

オリンピック記念青少年総合センター法(抄)
(目的)
第1条 オリンピック東京大会を記念し、この法律により、オリンピック記念青少年総合センターを設立する。
2 オリンピック記念青少年総合センター(以下、「青少年総合センター」という。)は、その設置する青少年のための宿泊研修施設を適切に運営し、青少年の心身の発達を図り、もって健全な青少年の育成に寄与することを目的とする。
(略)
(業務)
第19条 青少年総合センターは、第1条の目的を達成するため次の業務を行う。
 一 青少年のための宿泊施設を設置し、及び運営すること。
 二 その設置する宿泊研修施設を利用して、青少年の心身の鍛錬その他の心身の健全な発達を図るため必要な業務を行うこと。
 三 オリンピック競技大会に関する内外の資料を収集し、整理し、保存し、及び利用に供すること。
 四 前3号の業務に附帯する業務
2 青少年総合センターは、前項の業務を行うほか、第1条の目的の達成に支障のない限り、その設置する宿泊研修施設を一般の利用に供することができる。

特殊法人の整理合理化-国の直轄化へ

1)全国的な青少年団体の動き
(略)

2)特殊法人を対象とする行政整理の嵐
・・・このため昭和39年に内閣は臨時行政調査会を設置し、審議の結果昭和39年9月に「公社、公団等の改革に関する意見」を答申した。これは、公社、公団等の機関は増加する一方で、用ずみになった機関も一向に解散しなかったからである。

この昭和39年9月の意見の中に、「特殊法人の整理合理化等の基準」というのがあり、行政管理庁はこれに沿って昭和42年~43年に整理を行い、その後も昭和45年、50年、52年と社会経済の変動に応じて、状況をみて整理が進められた。特に、昭和50年には全特殊法人の見直しが行われ、このとき、文部省内の体育局の所管になる2つの特殊法人、国立競技場とオリンピック記念青少年総合センターが整理の対象になったのである。

昭和39年9月に出された「特殊法人の整理合理化の基準」は次の4項目からなっている。
1 設立当初に目的とした機能を現実に果たしていないものは廃止する。
2 政府関係機関等の中で同種の業務を行うものがあるときは、これらを統合する。
3 財務的または経営的に自律的運営能力を持たないものは、本省の付属機関に改
組するかまたはこれらの業務を地方公共団体に委譲する。
4 その他の特殊事情
である。

昭和50年9月に提起された問題は、国立競技場はオリンピック東京大会の競技場を、オリンピック記念青少年総合センターはその選手村を、ともにそれぞれを維持管理する特殊法人であるとの解釈の下に、両法人の統合を提起したことにあった。つまり、このとき行政管理庁は両法人を「政府関係機関等の中で同種の業務を行うもの」と判断してきたのである。

しかし、この判断に対し文部省は難色を示した。たしかに両法人ともその業務内容の一部に施設の管理運営を行う業務を行う点は共通であるが、その主たる業務内容についてみれば、国立競技場は運動施設・競技施設を一般に提供する法人であり、オリンピック記念青少年総合センターは青少年の宿泊を中心とした研修や最近増加してきた日帰り研修など各種研修活動の実施に施設を提供し、研修を援助する法人であって、明らかに事業内容は異なるとの見解であった。この見解の延長上にオリンピック記念青少年総合センターを体育局所管法人から社会教育局所管法人へ移管した措置があったといえよう。

このような文部省の見解もあって、同年12月の閣議了解事項は「国立競技場とオリンピック・センターの統合の問題を含めて昭和51年度中にそのあり方を検討する。」となった。後の国会審議の中で行政管理庁の政府委員がしぶしぶ認めたように、この時点では行政管理庁は問題を先送りにして処理をしたのであった。

なお、このとき行政管理庁が示した特殊法人の廃止を含む法人数削減の基準は次のようになっている。
1 特殊法人としてその目的をほぼ達成したものや事情の変化により必要性の乏しくなったものの整理
2 事業内容は内部機構の合理化、簡素化の推進
3 類似の機能を営んでいる法人の統合

3)体育局から社会教育局への所管替え
昭和56年12月の閣議了解を受けて、文部省内では早速検討が開始された。その結果、国立競技場とはおのずから違う性格の施設であり法人であるとの結論に達した。オリンピック記念青少年総合センターの設置以来10年間の実績はまさに青少年教育施設であり、一般利用も多いことから社会教育施設であると認定した。特に、この10年間に宿泊研修者数はあるピークに達して以後は伸び悩み、代って日帰り研修の人数が増え、その比率が5対5から日帰り研修のほうが多くなる傾向を示していた。つまり、宿泊研修施設でもあり、大都市社会教育施設の特色も合わせもつ、ないしは、都市型施設の性格にウエイトがかかわっていたからである。

文部省としては、運営の実態からみて、オリンピック記念青少年総合センターはスポーツ、体育も含めた幅広い青少年教育の場として利用されている実態からみて、更に青少年団体からも社会教育施設として位置付けてほしいという要望も踏まえ、青少年教育施設としての性格をより明らかにすることが適当であると判断したのである。

この実態と同時に社会教育施設として内外に公表する以上社会教育局所管の法人とすることが、オリンピック記念青少年総合センターの性格を明確にすることになるとして、体育局から社会教育局への所管替えが図られた。昭和51年8月の省議でこのことが決定し、昭和52年4月18日の文部省組織令の一部改正で実現している。

当然ながらこれら一連の措置は行政管理庁との了解もとり付けて行われたことは言うまでもない。後の国会審議の過程(第87回国会参議院文教委員会安永英雄議員)で、行政管理庁は文部省におもいやりがありすぎるのではないかと皮肉られている。

4)オリンピック記念青少年総合センターを国の直轄機関へ
社会教育局への移管と並行して、オリンピック記念青少年総合センターのあり方については各方面の意見を徴しながら進められていった。

その結果、青少年教育の充実という観点から、増加した国公立の青年の家や今後の将来性の高い少年自然の家との、あるいは青少年団体などとの調整・連絡・協力の場、並びに青少年の具体的な活動に着目しながらの調査・研究の場というようなものが設けられれば、より青少年教育の充実に役立つだろうというような議論もされ、考えられるようになった。

昭和52年3月には次のような結論を出した。「特殊法人の整理合理化という内閣の方針にも沿い、また、これまでのセンターに関して各方面から提案されてきたことをも含めて解決していくには、特殊法人同士の整理合理化よりは、直轄の社会教育施設として国が経営することがふさわしい」という結論である。

そうすることによって、基本的に青少年教育の振興のために大いに役立つと考え、新しい機能を付加することによって、国立の社会教育施設に発展的に解消していく方向で結論が出された。

すなわち昭和52年3月の時点で、「統合」は取り止めになり、特殊法人の「廃止」文部省直轄機関の「誕生」というシナリオが画かれたのである。

自由民主党の行財政調査会においても、特殊法人についての検討が進められ、結論としてオリンピック記念青少年総合センターに関しては、“文部省が直轄の社会教育施設として運営の責任を果たすように”という中間報告を昭和52年2月に出している。

その後、昭和52年9月の「行政改革に関する閣議了解」において「速やかに処理方針を確定すること」とされ、さらに昭和52年12月23日の「行政改革の推進に関する閣議決定」において、「特殊法人の整理合理化の一環として、昭和53年度中に廃止し、文部省直轄の社会教育施設とする」こととされた。

5)オリンピック記念青少年総合センター職員労働組合の対応
オリンピック記念青少年総合センターを国立競技場と統合してはどうかという昭和50年12月の閣議了解があった後、センター労働組合はこの問題に対し真剣にとり組んだ。理事者側からも協力して統合反対に力を貸してほしいとの申し入れもあったからである。

このことに関しては、政府関係特殊法人労働組合協議会が間に入り、組合としては態度を保留することとした。しかし、こうした問題が表面化したこともあって、青少年総合センターの将来に不安が広がったことは否めない。そこで労働組合としては、その後の展開について情勢に変化があったときには事前通知を必ず行うとの約束を理事者側と交わした。これにより、理事者側には、文部省、自民党などから話し合いがあれば、その知り得た段階で即刻組合に通知する義務が生じていた。

一方センター労働組合としては、設置以来10年間の問題として、利用者サイドのためにセンターはどうあるべきかを内部で検討し、白書なども作成してこの段階に至っている。その内容を簡単に紹介すれば、特殊法人であって今日広く親しまれているやにみえるが、なおかつ、センターの運営がきわめて官僚的であること、施設が極端に老朽化していること等々について組合の立場から述べ、その改善の方法を具体的に指摘している。このセンター改善案は昭和51年8月に刊行されたもので、青少年総合センターを将来ともに特殊法人として存続することを前提に、その中に施設その他の充実、文化、芸術、情報センター、実験研究というような改善案が盛り込まれている。このように、特殊法人としてセンターが独自に生き残るために、国として、あるいは法人として何をなすべきかが綴られたものであった。組合としても最善にして最大の努力を払い、直接、理事者側の要請に応える形ではないが、側面から支援する姿勢はくずしていなかった。

ところが、理事者側は52年3月、突如として文部省の直轄になると通告したのである。事前通告の話し合いをきっちり確認してあったにもかかわらず、その間の経過を組合に一切通告しないまま、最終決定のみを通告したのであった。

職員にとっては寝耳に水であり、生活の不安が一挙にふき出したことになる。早速理事者側と交渉をもったものの、職員のことについては心配ないということをくり返すのみであった。その直後、理事長の交替があり、労働者側としてはいわば投げ出されたという印象をもち、一層の不安に陥ったのであった。

新理事長が就任しても6ヵ月以上話し合いが持たれず、職員は不安のドン底に投げ込まれたままであったという。理事者側の言い分は“この種の問題は労働組合との話し合いになじまない。政府の決めることだから、理事として政府に対する発言は避けたい”との一点張りであった。ようやく昭和52年12月23日の閣議決定があって、翌53年2月に労使交渉が再開された。このときの理事者側の冒頭の出方が、「退職金について話し合いを持ちたい」ということであり、組合側の不信はその極に達した。長い間のつんぼさじきの期間をおいて、のっけから解雇-退職金ときたからである。

一般に特殊法人の職員の雇用関係は国家公務員のように横断的保障がない。Aという特殊法人が統廃合されてBという特殊法人になり、職員がAからBに移ったとしても、引き続き連続雇用になるかどうかの保障はない。また、給与についてもAでの給与額をBで保障される確実性はないのである。しかし、そのような不安があるために、国家公務員行政職よりは若干高めの給料表が適用されている。突然に国家公務員に切り換えるということは解雇ではない。しかし、国家公務員給与表で採用から同じ年数の横並びに移されても給料が下がることは確実であり、ましてやどこに格付けされるかも明確でないことは大へんな不安材料であったと推察される。

労使交渉が再開されるや、冒頭から“退職金について話し合いを持ちたい”となれば、職員の生活と権利を守る組合として決起せざるを得ない状況に置かれたといえよう。

「国立オリンピック記念青少年総合センターの施設整備について」(昭和55年12月17日、オリンピック記念青少年総合センターの施設整備に関する調査研究協力者会議報告書)

1 機能及び事業
(1)機能
近年、高学歴化、情報化の進行等社会的な条件の変化により、青少年が求める学習活動の内容が高度化、多様化してきており、また、都市に生活する青少年人口の増加等から、都市における青少年教育施設の果たす役割が大きくなっている。

国立オリンピック記念青少年総合センター(以下「センター」という。)は、青少年が多目的に利用できる総合的な機能をもつ施設として、このような状況に即して整備し、運営することが必要であり、同時に都市における青少年施設のモデルとしての役割を果たすことが期待される。

ア 在学青少年、勤労青年および青少年指導者等が、全国から集団宿泊研修ができるようにするとともに、立地条件等にかんがみ、東京をはじめ周辺の地域から効果的な日帰り研修ができるようにすること。特に体育・スポーツ、文化活動の一層の充実が図られるようにすること。
イ 青少年による多様な活動を促進し充実するために、全国的な観点に立って、青少年施設の職員や、団体活動の指導者等を対象とし、その資質の向上を図る高度な研修を行うこと。
ウ 国際化の進展に伴い、我が国の青少年の豊かな国際性のかん養に資するため、青少年の国際交流活動を積極的に助長すること。
エ 我が国及び諸外国における青少年教育に関する情報、資料を収集し、広く関係者に提供するなど、情報サービスセンターとしての役割を果たすとともに、全国の青少年施設並びに青少年団体の相互の連携を促進すること。
オ 青少年教育の一層の振興を図るための専門的かつ実践的な調査研究を行うとともに、その成果を広く関係者に提供すること。

(2)事業
ア 青少年の研修のための場とサービスの提供
  青少年の宿泊及び日帰りによる多様な研修活動のために、施設、設備及び研修プログラムに関するサービス等を提供する。
イ 青少年のための研修事業の実施
  青少年のための実験的、モデル的な事業等を主催し、又は青少年団体、青少年施設等と共催するなどにより実施する。
ウ 青少年教育指導者等の研修の実施
  青少年施設の職員及び青少年団体・グループ活動のリーダー等の指導者の資質の向上を図るための高度な研修を実施する。
エ 青少年の国際交流活動の助長
  諸外国の青少年と我が国の青少年との交流の場の提供、外国青少年に対する情報資料の提供等を行う。
オ 青少年に関する情報、資料の収集及び提供
  我が国のみならず諸外国の青少年の活動、施設、団体等に関する情報、資料の収集、提供、オリンピック競技大会に関する資料等青少年に関する資料の展示を行う。
カ 青少年施設との連携の促進
  全国の青少年施設の関係者を対象とした研究協議会、連絡会議等を開催し、情報及び交流の場の提供を行う。
キ 青少年団体との連携の促進
  青少年団体への情報及び交流の場の提供を行うとともに、青少年団体関係者の連絡会議等を開催する。
ク 青少年活動に関する相談事業の実施
  青少年及び青少年指導者を対象に青少年の団体活動、学習活動、施設利用等について、面接及び電話等による相談に応じる。
ケ 青少年教育に関する専門的な調査研究の実施
  青少年の活動、施設、団体等に関する専門的かつ実践的な調査研究を行うとともに、その成果を広く関係者に提供する。
 以上の事業の運営に当たっては、センター周辺の青少年が利用できる関連施設との連携について十分配慮する必要がある。

国立少年自然の家関係

「学制百年記念」国立少年自然の家(仮称)の設置について」(昭和47年10月20日、「学制百年記念」青少年施設に関する調査研究会)

 国立少年自然の家設立の趣旨
(1)過去100年のわが国の学校教育のはたした役割はきわめて大きいものがあるが、近年ややもすれば少年期の教育は学校に依存しがちであり、社会教育および家庭教育の役割がじゅうぶんに認識されないうらみがある。これからの教育においてはこれを反省し、さきの中央教育審議会および社会教育審議会の答申にも指摘されているとおり、生涯教育の観点から学校教育、社会教育および家庭教育の役割を明らかにし、相互の連けいを密にして全人的な教育の実現を期さねばならない。

したがって、従来ふじゅうぶんであった少年期の社会教育(小・中学校児童生徒の学校外活動)の充実をはかるとともに、とくに学校教育および家庭教育との有機的な連けいのあり方について試行と研究を行なうことが極めて重要である。

(2)最近の急激な都市化や核家族化の進行に伴い、今日の少年は自然から隔絶され、孤独な生活環境に置かれるなど、少年の望ましい成長を著しく阻害する要因が増大している。このため、少年を大自然の中に開放することが何よりも緊要である。すなわち、このことによって少年が自然の恩恵、神秘などに触れ、その探究心や敬けんの念がはぐくまれ、創造性の芽が誘発され、集団宿泊生活における協力的な活動を通じて日常生活では求めにくい社会性が高められるなど、ふだん学校や家庭では期待しにくい経験を得ることができるからである。

(3)公立少年自然の家が全国的に設置されつつある折でもあり、かつその設置を一層促進する意味あいから、そのモデルとして、これら施設との密接な連けいのもとに、その活動のあり方が全国に影響を及ぼすことができるような、また公立少年自然の家の求めに応じて実践の成果にもとづく適切な助言を与えることができるような中心的な施設を設置することが必要である。

よって、以上の目的に沿う施設として国立少年自然の家を設置することは、学制百年記念事業としてきわめて意義深いことである。

2.国立少年自然の家の事業
  事業として、次のようなものが考えられる。
(1)少年が家庭や学校では期待できない経験を得る機会と場を提供する。
 ア 少年が自然に親しむことができるようにする。
   豊かな自然の中で自然観察、自然探究、自然愛護など自然に親しむ諸活動を行なう。
 イ 少年が野外活動を行なうことができるようにする。
   登山、キャンプ、ハイキング、オリエンテーリング、サイクリングなど野外活動を通じて心身を鍛える。
 ウ 少年が自然の中で集団宿泊生活の体験ができるようにする。
   少なくとも3泊4日以上の寝食をともにする集団宿泊生活における協力的な活動などを通じて、規律、協同、友愛、奉仕の精神をかん養する。
(2)少年が家族とともに上記の活動に参加し、豊かな人間関係が深められるようにする。
(3)少年教育の指導者の研修を行なう。
   公立少年自然の家の指導職員、少年団体の年長および年少のリーダーなど広く少年教育の指導者の研修を行ない、その資質の向上を図る。
(4)少年教育に関する情報の収集・提供および調査研究を行なう。
(略)