
京都大学名誉教授伊藤邦武氏の「宇宙の哲学」(講談社学術文庫)について紹介したいと思います。
この本では、ケプラー、パスカル、ニュートン、カント、パースなどによって宇宙の謎にどのようにアプローチしてきたのかを振りかえり、宇宙の歴史は有限か無限か? 「この宇宙」はどのように生まれたのか? 時間の誕生に以前には何があったのか? などの難問に答えを出そうとしています。
この本の全体の構成は次のようになっています。
講義 自然哲学のゆくえ
第1講 コスモロジーの自立
第2講 ケプラーの夢
第3講 無限宇宙の永遠の沈黙
第4講 時空をめぐる論争
第5講 レヴォリューション━━回転か革命か
第6講 決定論の崩壊
第7講 ビッグバンの方へ
補講 宇宙の時間、有限か無限か
補講1 有限説と無限説
補講2 カントのアンチノミー
補講3 パースの宇宙論
解説 新しい自然科学は未解決問題に挑めるか(野村泰紀)
第1講において、伊藤教授は、この本で一番重要点であろうことを書いています。すなわち、「自分が作り出した知識によって、自分を含むすべてのものを生み出した世界の謎を明らかにすること」、これは非常に不思議なことであるが、「自然科学と呼ばれる知的探究の魅力と逆説的性格の核心は、何よりもこのことにある」と述べています。このことを「コスモロジーの自立」と言い換えています。
この本の中で、近代から現代へと貫く共通の問題意識として、コスモロジーの自立という視点から見ようと試みており、「ここでいうコスモロジーの自立とは、宇宙全体の過去から将来までの一切についての認識が、その認識成立の可能性の原理をも含めて、その理論内部の説明原理によって得られることになるような、一種の科学の理想を意味する」と説明しています。そして、第2章以下では、具体的に歴史上の人物を中心に、近代哲学の「復習」を行うことになります。
第2講は、ガリレイやデカルトと同時代の代表的な天文学者であり哲学者であったヨハネス・ケプラーを取り上げています。ケプラーは1571年にドイツで生まれ、後にティコ・ブラーエの弟子となって、当時としてはヨーロッパで最も精密な天文学上の観察記録をもっていたブラーエの資料を用いて、火星を中心とする諸惑星の運動論の完成を試み、その結果、ケプラーの3法則(「楕円軌道の法則」「面積速度一定の法則」「調和の法則」)を導いて、ニュートンの万有引力の力学への道を切り拓いたことで知られています。こうしたケプラーの業績については、高校で習ったことがある人も多いかと思います。
ここでケプラーの著作『夢』を紹介しています。あまり知られていないものだと思いますが、世界初のサイエンス・フィクションということです。その内容は、1人の天文学者(実はケプラー自身の分身)が月世界に旅行し、そこで詳しい天体観測を行って、新しい知識の正確さを十分に感得し、その報告を行った、というものです。ここで特筆すべきは、「新しい天文学の知識の強力さを、その天体現象の記述の精緻さを示そうとした点」だけではなく、「その科学的方法論上の変革と、それにともなう世界観の転換」を示唆したところにある、と伊藤教授は説明しています。ケプラー自身は、このような書物をなぜ書いたのか、またそれをなぜ母と息子の物語としたのかを、次のように語っています。
教えを受けていない単なる経験、つまり医学の用語でいうところの経験のみの修練は、「知識」を生みだす母なのである。知識にとっては、その母親である「無知」が人々のあいだに生き続けているかぎりは、物事の奥深く隠された原因を暴くのは安全ではない。・・・私の『夢』の目的は、地球の運動を支持する議論を打ち立てるために月の例を使うことである。・・・月の住民から見れば、その天体に見える大きな球体、すなわちわれわれの地球は、それ自身の不動の軸を中心にしてたえず回転しているように見える。彼らはこの回転の証拠として、その球体上の諸地点の変化を挙げることができるのである。
伊藤教授は、このケプラーの説明の中に、3つの極めて重要な主張が込められている、と言います。
1つは、「科学」すなわち「知識」(これらの原語はいずれもスキエンティア、つまりサイエンスです)とは、それまでの長い無知からの離脱を目指すものであるが、この離脱は子供が親から独立することに等しく、さまざまな感情的な葛藤や混乱をともないがちだ、という主張です。2つ目は、この知識の自立においては、地上の住むわれわれ自身を月のような外の世界から観察する視点が必要であり、いいかえれば、物事を観察したり経験したりしている自分自身をも、外から突き放して考えてみる必要がある、という主張です。そして、3つ目は、こうしたいわば自己中心的な見方からの脱却が可能になるのは、自分たちが経験を通じて得てきたデータだけに満足するのではなくて、それらのデータの背後にある、現象の奥にある本質的な「因果関係」を突き止めようとする努力によるのだ、という主張です。
実際に、ケプラーの探究方法は、伊藤教授が解説するように、「膨大な観察結果をできるだけ整合的に説明できるような『数学的パターン』の発見を目指したうえで、さらにそのパターンの『因果的な説明』を、力学上の理論によって与えようとするもの」です。そして、近現代科学の基礎となる方法論につながるということになります。
第3講では、パスカルが宇宙について書いた「この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐れさせる」、この意味について探っていきます。パスカルの死後に残された断片集を編集して出版された『パンセ』という有名なの本の中に、宇宙の沈黙についての文章がありますが、それが以下のように紹介されています。
人間の盲目と悲惨さを目にし、沈黙する全宇宙を見つめるとき、また、人間が光りなく打ち捨てられ、いわば宇宙のこの一角に迷いこんで、誰によってそこに置かれたのか、何をしにここへ来たのか、死ねばどうなるのかを知ることなく、何も認識する能力をもたずにいることを見つめるとき、私は恐怖に襲われる。ちょうど、眠っているあいだにどこかの無人島につれてこられて、目覚めたとき、そこがどこかも分からず、そこから逃げるすべもない1人の人間にように。
この文章の中で見て取れる「空間の無限性」、「沈黙、すなわち無目的性」、「恐怖、あるいは情念」という3つの言葉を、伊藤教授はその言葉の背景にある思想を概略的に解説しています。その中には、パスカルは、神の存在は証明できず信じるほかはないと考えており、また、人間が精神と身体からなる二重的存在者であると信じていた話なども含まれています。すべてを受け入れたようではないですが、パスカルはデカルトの影響を受けていたようです。まとめると、「神と身体、そして空間と時間、マクロとミクロの世界、機械として見られた世界と目的、精神と身体、そして空間と時間」といった問題を、パスカルはデカルトの思想を手がかりに掘り下げており、それをパンセの中で凝縮して述べている、と伊藤教授は言います。
第4講では、過去の偉人による、時空をめぐる論争に焦点が当てられています。例えば、空間に関して言えば、「いかなる物質も存在しなかったとしても、空間自体は存在していると考えてよいのか。それとも、物体なしには空間もまた存在しないのか」といったことが疑問として持ち上がります。
ニュートンの『プリンキピア』が発表されると同時に、こうした時空の問題に対する関心を引き起こしました。ニュートンは、「いかなる物体も存在しないところにも、物体とは独立に空間が存在し、時間が流れている」と主張します。さらに、『プリンキピア』の後に出版した『光学』において、「この絶対時間、絶対空間が、いわば神が世界を感覚するための『感覚器官』、あるいは『感覚中枢』である」と表現されています。
一方でライプニッツは、「絶対的時空論を否定して、空間や時間はさまざまな物どうしの『併存の関係』と『継起の秩序』を表す副次的なものであり、徹底して事物に相対的なものである」と主張します。そして、「彼の形而上学では、本当の意味で実在しているのは精神的な単位(彼の言葉でいうモナド)とされますので、物体とはそのモナドが世界を『映した』現象界を構成する(神によってよく秩序づけられた)諸現象にすぎず、時空はその現象界内部の経験的、相対的な秩序ということになります」とのことです。
こうした対立に対して、カントは、両者のアイディアの一部を否定し、一部を生かして、次のような「総合」した考えを提出しています。(この議論は、カントの『純粋理性批判』において展開されていますが、次の文章は伊藤教授が本書においてまとめたものです。)
まず、物体と空間との関係は、ライプニッツのように物とその内部性質というものに還元することはできない。・・・しかし一方、ニュートンがいうようにこの非依存的な空間が現象を超えて、物そのものと同格の、あるいはそれ以上の絶対的な実存性を要求できるわけでもない。・・・この点では、自然のうちなる諸事物を「現象」として捉えたライプニッツの方が厳密である。とはいえ、事物が現象にすぎないのは、それが精神的な実体と比較されてそういわれるのではなくて、むしろ、さまざまな事物が、空間・時間という「格子」または「網」をとおしてしか、われわれに与えられることががないからである。つまり、神であればその創造物を何らかの直接的なしかたで捉えることができるかもしれないが、われわれ人間は、その世界の知覚の形式である空間・時間を足場にして、はじめてさまざまな事物を自分の「対象」として捉えることができるのであり、その意味で、われわれの認識の対象は現象にすぎない、と考えざるをえないわけです。
伊藤教授はここで最も注意すべき点として、ニュートンとライプニッツに共通する誤りを批判するという仕方で行っている点を挙げています。これについては、次のように説明しています。
その共通の誤りとは、すなわち、われわれの自然認識の根本原理の説明において、「神」という超自然的な存在者を想定するということです。カントは、神の世界認識に対比される人間の認識の特徴というものをきわだたせるために、対象の現象性というライプニッツのアイデアを生かし、同時にその現象界の成立の形式的条件として空間・時間を設定することで、「われわれにとっての絶対的なもの」の視点を樹立したのです。
第5講においてはカントについてさらに考察が進められます。続く第6講では、決定論という概念が登場する経緯やその崩壊などが紹介されています。最後の第7講では、ビッグバン宇宙論についてふれるとともに、これまでのまとめをしてます。その中で重要な部分について以下のとおり挙げておきます。
近代の自然探究的探究は、単に太陽系その他の天体の運動にかんする、よりよい説明原理を求めたというばかりではなく、そうした説明の可能性の根拠や限界についての鋭い問題意識というものをともなっていた。こうした問題意識は、当初は宇宙の創造者と目されていた神の計画をいかにしてわれわれが明らかにするか、あるいはそうした計画を自然のうちに見出すことができないとしたら、われわれはいかに生きるべきなのか、というかたちで問われていた。しかし、実際にニュートン力学が完成してみると、問題なのは神と世界との関係ではなくて、むしろ世界と人間の認識能力との関係であるということが、たとえば空間・時間の存在論上の位置などをめぐって明らかになった。
カントの哲学は、このような問題意識の系譜の最後にあって、人間の世界認識がわれわれの思考の形式に全面的に依拠しているがゆえに、われわれの認識は「観念的なもの」であることを認めると同時に、神の存在の如何(いかん)や、宇宙全体の有限・無限の区別は原理的に論証不可能であるという帰結を承認した。そのために彼が用いた議論は、人間の対象受容の能力や因果的な判断の能力の形式的基盤(時空という直観形式とさまざまなカテゴリー)を、ユークリッドの幾何学やアリストテレスの論理学の絶対性に結びつけて理解する、というものであった━━。
さて、このような近代哲学の代表としてのカント哲学の結論には、ビッグバン宇宙論の構築を目指す今日のわれわれの目からみると、明らかに誤っていたと認めざるをえない面があります。とくに、彼が、宇宙全体の空間的・時間的なスケールについての議論は必然的に矛盾(彼の言葉でいう「アンチノミー」)にまきこまれるとした点は、いまや完全に否定されていいるといってよいでしょう。そして、こうした誤りが、彼が根本的に疑うことのなかったわれわれの感覚形式や判断形式の、あまりにも硬直した見方にそのおもだった原因をもつことも明らかです。
なお、「カテゴリー」という言葉についてですが、一般的に使われているカテゴリーの意味ではなく、ここでは、「原因・結果」や「実体・属性」のような判断の形式である、と伊藤教授が第5講の中で説明しています。
この本のメインとなる部分については以上になるわけですが、伊藤教授は補講という形でさらに掘り下げて議論を続けています。補講1では「宇宙の歴史は有限か無限か」について、補講2では「カントのアンチノミー」について、補講3では「パースの宇宙論」について、それぞれ深く考察がなされています。
私としては、補講1の「宇宙の歴史は有限か無限か」というテーマが気になったので、その部分について、最後に載せておきたいと思います。宇宙を貫く時間の流れには、どこかに「始まり」があるのでしょうか。あるいはどこかで「終わり」があるのでしょうか。それとも無限の過去から始まって無限の未来へと続くものなのでしょうか。このことについての議論について、歴史を振り返っています。
古代から中世にかけては、ユダヤ━キリスト教思想、ギリシャ思想、スコラ哲学を見てみても、「宇宙の時間的有限説、無限説が入り乱れて、はっきりとした定説はない」と言います。その後、17世紀から18世紀にかけては、「フランスのガッサンディやイギリスのバロウ、ニュートンらのように世界の永遠説を打ち出している人たちが目立ちます」と状況に変化が生まれます。18世紀から19世紀にかけては、カントによるアンチノミーの議論が出され、これが決定的な解答ということになります。すなわち、「宇宙の時間が無限か有限かということについては、『解答不可能』という驚くべき解答が出されてそれが正しいということになり、この問題はひとまず決着を見た」とのことです。そして、20世紀になって、ビッグバン宇宙論の展開によって事態は大きな変化するようになりますが、これについては、次のように書かれています。
それはいうまでもなく、ビックバン(火の玉)宇宙開闢説の展開によって、宇宙の起源が約140億年前の出来事として特定され、少なくとも宇宙はその過去にかんしては有限であるということが明らかにされたということです。火の玉宇宙論は20世紀の半ばからガモフらによって提唱されてきましたが、それ以前に経験的に確立されていた宇宙の膨張説や、その後に検証された宇宙背景輻射の観測によって、現在ではほとんど疑うことのない事実であるとされています。
しかしそれですべてが解決済みなのか、との疑問に対して、伊藤教授は、多くの人は「必ずしもそうとは言いきれないような気もする」と答えるのではないか、と言います。そして次のように続けます。
たとえビッグバンによる「この宇宙の」誕生が特定の過去の時点の出来事として認められるとしても、私たちには依然として、この宇宙以前にも宇宙の誕生と消滅の連鎖が永遠に続いていて、宇宙全体の時間は結局無限なのではないか、とか、宇宙の誕生「以前」という概念は意味があるのかどうか、といった、哲学的な問いを立てたくなる気持ちが残っているような感じがします。しかも、こうした問いを立てることは実際に今なお可能であり、これらは決して純粋にアプリオリな思弁による空論であるとか、もはや科学的な見地からすればほとんど意味のないたわごとであるとして、退けられる必要はないと考えられるからです。
さて、ここまで「宇宙の哲学」の内容について見てきましたが、私としては、次のようにまとめたいと思います。(1)歴史上の偉大な哲学者、科学者がその当時の最先端の知識などをもとに、宇宙が有限なのか無限なのかという疑問に取り組んできたが、解決するまでには至らなかった、(2)この疑問は、現在のビッグバン宇宙論によって大きな進展をみせたが、完全に解決がなされたとまでは言えない、(3)そして、この疑問については、哲学的な考察は必要だろうが、それだけでは決着がつくものではなく、理論物理学を含めた科学技術の進展も必要である。
今後、宇宙の時空に関する疑問に関しては、さらに理論物理学者の野村泰紀教授の書物などを読んで考えていきたいと思っているところです。ここでは一部しか紹介できていませんので、興味を持った方は、実際にこの本(「宇宙の哲学」)を購入するなどして、じっくり全体を読んでみてください。