イギリスの哲学者であるフィリッパ・フット(Philippa Foot)が1967年に考案したトロッコ問題(The Trolley Problem)という思考実験があります。これをもとに正義について考えたいと思います。なおこの問題は、ハーバード大学のマイケル・サンデル(Michael Sandel)教授が、2010年にNHKで「ハーバード白熱教室」の中で紹介したこともあり、多くの人が知っている問題だと思います。

第1の事例
あなたは路面電車の運転手で、時速60マイル(約96キロメートル)で疾走しています。前方を見ると、5人の作業員が線路上の立っています。電車を止めようとしますが、ブレーキがききません。このままいくと、電車は5人全員をひき殺してしまいます。ふと、右側へそれる待避線が目に入ります。そこにも作業員がいます。しかし、1人だけです。路面電車を待避線に向ければ、1人の作業員は死にますが、5人は助けられることに気づきます。運転手はどうすべきでしょうか。そのまま何もせず5人の作業員に突っ込むべきか、それとも向きを変えて1人の人間をひき殺すべきでしょうか。

上記の問いについて道徳的に答えるという問題です。この問いについては、多くの人が、待避線に入る方を選ぶという調査結果があります。1人を犠牲にはしますが、5人を殺すよりはまだいいという理屈です。

第2の事例
それでは問題を少し変えて、次のようにしたとします。今度は、あなたは運転手ではなく傍観者で、線路を見下ろす橋の上に立っています(今回は待避線はありません)。線路上を路面電車が走っています。前方には作業員が5人います。ここでも、ブレーキはききません。路面電車はこのままだと5人をひき殺すことになります。そのとき、隣にとても太った男がいることに気がつきます。あなたはその男を橋から突き落とし、疾走してくる路面電車の行く手を阻むことができます。その男は死ぬでしょうが、5人の作業員は助かります。その太った男を線路上に突き落とすことは正しい行為でしょうか。

これに対しては、ほとんどの人が正しくないと答えます。

誰かを橋から突き落として確実な死に至らしめるのは、5人の命を救うためであっても、実に恐ろしい行為のように思えます。しかし、そうだとしたら、最初の事例では正しいと思えた原理、すなわち5人を救うために1人を犠牲にする、ということが2つ目の事例では間違っているように思えるのはなぜでしょうか。

第3の事例
第1の事例では運転手の行為でしたが、これを目撃者の立場の行為に着目した問題とします。すなわち、あなたは暴走している路面電車を目撃しています。しかもすぐそばには、電車の進行方向を変えるための切り替えスイッチがあります。あなたが何もしなけば、電車はそのまま突き進んで5人の人間をひき殺すことになります。一方で、切り替えスイッチを操作して電車を待避線に向けば、犠牲者は待避線にいる1人だけですみます。目撃者はどうすべきでしょうか。そのまま何もせず5人の作業員に突っ込むべきか、それとも向きを変えて1人の人間をひき殺すべきでしょうか。

これについては、5人を救うために1人を犠牲にするほうを選ぶ人が多いという調査結果があります。しかし、事例2の場合と事例3の場合でどうしてそのような違いが生まれるのでしょうか。同じように自分の意思で選択するのですが、このような違いが出てきます。

事例1の場合は、運転手の立場であるので、なにもしない行為を選択するか、方向を変えるという行為を選択するか、どちかかです。となると被害が最小限になるほうを選ぶというのは、ある程度納得できるかもしれません。

一方で、事例3の場合は、目撃者という立場なので、そのままなにもしないという選択か、スイッチを操作して方向を変えるという選択をするか、どちらかを選択することになります。単なる目撃者なので、そのままなにもしないという選択もあり得るような気がしますが、目撃したからにはベストを尽くしたいとして、スイッチを操作して被害を最小限にしようとする気持ちもよく分かります。しかしそうは言っても、その1人を殺す行為をした、という罪悪感はあると思います。はたして、どうすればよかったのでしょうか。

事例2の場合は、わざわざ自分である人を突き落とすというかなり積極的な行為(それも殺人行為)をすることになるため、ためらう人が多いと思われます。

5人よりも1人を犠牲にするほうを選ぶ立場は、「功利主義」(Utilitarianism)の立場とされます。19世紀のイギリスの哲学者ジェレミ・ベンサム(Jeremy Bentham)によれば、ある行為の善悪は、その行為の結果によって決まります。そして、われわれのめざすべき結果は「最大多数の最大幸福」である、となります。こうした考え方は、結果がすべてということで、「結果主義」(Consequentialism)と呼ばれることもあります。また、「功利主義」とも呼ばれます。幸福という利益だけが善の基準になっています。

一方で、18世紀の哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant)の「義務論」(Deontology)の立場からは、「他人を単なる手段として用いてはならない」、「普遍的な法則になってほしいようなルールにしたがって行動せよ」ということが引き出されます。そして、方向を変えて、1人を犠牲にする行為をすることは正しくない、となります。

哲学的な立場が違えばそうなのでしょうが、ではどちらが正しいのでしょうか。いままで様々な議論がなされてきましたが、いまだ正解というものはないようです。

このように答えが出ない理由としては、それぞれの人間はかけがえのないものであり、それぞれが平等の価値をもつということからきていると思われます。5人であっても、1人であってもそれぞれの人間には計り知れない価値があり、いわば無限大の価値があるということでしょう。単純化して考えると、5人の方も無限大の価値、1人の方も無限大の価値、どちらも同等に無限大の価値があるから、どちらのほうの選択が正しいという答えは出ない、ということではないでしょうか。

これまで、線路上の5人、待避線上の1人ともに、運転手あるいは傍観者、目撃者とは無関係の人という前提でみてきましたが、もし線路上の5人、あるいは待避線上の1人の中に知っている人、身近な人がいたら、その人が死なないような行動、すなわちその人がいない方に電車を向けることになるでしょう。

さて、以上の問題で、線路上および待避線上に人間ではなく大切な物があったとしたら判断は簡単かもしれません。例えば、5台の高級車と、1台の高級車だとしたら、1台の高級車が台無しになる方を選ぶことでしょう。人間であることから、判断が難しいということになるわけです。

参考文献 マイケル・サンデル「これから「正義」の話をしよう」早川書房
     トーマス・カスカート「「正義」は決めれるのか?」かんき出版