
今回は、カリフォルニア大学バークレー校の野村泰紀教授による著書『マルチバース宇宙論』(星海社)をご紹介します。野村教授の著作の中では比較的平易な内容とのことですが、それでも物理学的な専門性の高さから、ところどころ理解に骨が折れる部分もありました。
本書の核心は、「私たちが見ている宇宙は、多くの宇宙の中のひとつにすぎない」という、いわゆる “マルチバース(多元宇宙)” の考え方です。ただし、これは単なる空想的な仮説ではなく、著者によれば「現在までの物理学の成果をふまえて、理論的に積み重ねられてきたもの」であるといいます。読んでいくうちに、確かにその丁寧な論理展開に、次第に納得させられていきます。
宇宙の膨張━━「無限」が膨らむとはどういうことか
第1章では、「宇宙とは何か」から説き起こされています。1929年、エドウィン・ハッブルによって宇宙の膨張が発見されたことはよく知られていますが、では「膨張」とは具体的に何を意味するのでしょうか。本書では次のように説明されています。
「宇宙が膨らんでいる言うと、読者は初め小さかった宇宙が大きくなっていくというイメージを持つかもしれない。しかし、これはそうとは限らない。(下の)図に示すように、膨張宇宙の「大きさ」は最初から無限であり得るのである。すなわち、宇宙が膨張しているとは、宇宙の異なる点の間の距離(例えば銀河間の距離)が一緒に大きくなっていく現象のことであり、それは必ずしも宇宙全体のサイズが有限であり、それが時間と共に大きくなっていくということではない。」
このように、「宇宙の膨張」は私たちが日常的に抱く空間イメージとは大きく異なる概念であることがわかります。
光で “見える” 宇宙、そして “見えない” 初期宇宙
膨張している宇宙は、かつて非常に高温・高密度な状態で始まりました。つまり、ビッグバンです。本書では、年齢が約40万歳、温度が3000度程度だった頃の宇宙を「私たちは “直接見ている” 」と述べています。最初はこの表現に戸惑いましたが、以下のように解説されています。
宇宙が膨張しているために、初期宇宙から発せられた光はドップラー効果によって波長が伸び、可視光を超えてしまっています。つまり私たちの目には見えなくとも、電波としては今でも検出可能なのです。言い換えれば、「夜空は実はピカピカに輝いている」━━ただし、電波望遠鏡を通してというわけです。
原子核もなかった時代━━粒子の海としての宇宙
宇宙の年齢がわずか1〜10分ほどだった頃、ようやく原子核が形成され始めました。それ以前の宇宙には、陽子、中性子、電子、ニュートリノ、光子が飛び交うプラズマ状態しか存在していなかったといいます。さらにその前段階━━「超初期宇宙」についても、本書は理論的に描いています。
この時代に起きた重要な2つの出来事として、著者は以下を挙げます。
- ダークマターの量が決まった
- 物質が反物質に対してわずかに優勢になった
特に後者について、読者の多くが素朴に抱くであろう疑問に対して、次のような説明がなされています。
「まず宇宙の超初期の超高温高密の時代には、物質と反物質は同じ量だけ存在していた。しかし、・・・CPの破れの効果(粒子と反粒子の相互作用が完全に対称ではない効果)により、宇宙進化の過程で2つの量の間にほんのわずかな差が生じた。(観測から逆算すると、この違いは約 6×10⁻¹⁰ 程度であったことが分かる。)そしてさらに宇宙が冷える過程で、これらの物質と反物質はそのわずかな違いの分を残して全て対消滅してしまい、物質のみの宇宙が残ったのである。」
このように、私たちが存在している物質宇宙の背景には、極めて微細な不均衡があったことが強調されています。
“マルチバース” の姿
そして第3章では、いよいよ「マルチバース」が登場します。本書では、「永久インフレーション」と「超弦理論の余剰次元の構造」という2つの理論的枠組みを組み合わせることで、マルチバースという壮大な宇宙像が導かれるとされています。一度読んだだけでは全体像をつかむのが難しいテーマではありますが、著者は以下のようにまとめています。
「時空では永久に加速膨張を続ける「背景」の中に無限の泡宇宙が生み出し続けられている。さらに超弦理論によれば、これらの泡宇宙は 10⁵⁰⁰ かそれ以上もの種類を持っている。これらの異なる宇宙においては、素粒子の種類や性質から真空のエネルギーの値、空間の次元までもが異なっており、我々が住んでいる宇宙、すなわち第1章で見た宇宙はこの無限の泡宇宙の1つにすぎない。」
つまり、私たちの宇宙とは、永遠に広がり続ける “背景” のなかにぽつりと生まれた無数の「泡」のひとつなのです。
私たちは “特別” ではない?
この壮大な構図のなかでは、「私たちの宇宙」も、そして「私たち自身」も、決して唯一無二の存在ではないかもしれません。むしろ、10⁵⁰⁰ もの泡宇宙があるのならば、生命が生まれ、知的存在が現れる宇宙が複数あっても不思議ではない。著者の説明を通して、その可能性の広がりに圧倒されると同時に、私たちの存在の意味を問い直す視点も与えられます。
本稿では、本書のごく一部しかご紹介できていません。宇宙論に少しでも関心のある方、あるいは「マルチバース」という言葉に惹かれた方は、ぜひ野村泰紀教授の『マルチバース宇宙論』を手に取ってみてください。難解ではありますが、それを上回るほどの知的刺激と驚きが待っています。